太平洋戦争のサイパン島の戦い(1944年6月15日から7月9日)にて、6月28日にアメリカ軍の砲撃で殺害された日本軍兵士の死体がサイパン島のタポチョ山に散乱した。アメリカ軍に突撃した日本軍兵士の全員が、最終的には砲撃で吹き飛ばされ死亡した。アメリカ軍兵士は、サイパン島のジャグルの中にいる日本軍の狙撃兵を掃討した。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体の山の隣にある戦闘で崩壊したジャングルの空き地に集散した。
アメリカ軍は6月22日から、サイパン島の最高峰であるタポチョ山を攻略して侵攻した。タポチョ山に連なる高地群は、地形を巧みに活用した陣地の日本軍と、最も激しい戦いとなった。日本軍が陣地で迎え撃ち頑強な抵抗をして、アメリカ軍の侵攻は難攻した。多数の死傷者が続出したアメリカ軍は、タポチョ山領域の峡谷を、死の谷、パープルハート勲章、地獄谷と悪称した。
日本軍は、山腹にある洞穴から重迫撃砲や重機関銃で攻撃した。下方のアメリカ軍は洞穴を戦車砲で攻撃するのは困難となり、手榴弾や銃剣や激しい白兵戦が展開された。側面から日本軍の攻撃を受けて、アメリカ軍の6月23日の総攻撃は失敗した。6月24日にも死の谷に向けて侵攻するも、峡谷からの日本軍の激しい砲撃で撃破されて、撤退を余儀なくされ、多数の死傷者を伴って、侵攻地点に引き戻った。サイパン島に、6月15日に上陸したアメリカ軍は以来約2週間に及ぶ激戦で、戦死者数は圧倒的に日本軍が多かったが、アメリカ軍にも数千人単位で戦死者が出て、埋葬が間にあわず、死体袋が砂浜にうず高く積み上げられる状態となり、途中から海軍の艦艇に積んで沖合で水葬にした。
日本軍は、タポチョ山でアメリカ軍の侵攻を足止めした6月24日に、大本営の方針はサイパン放棄で、増援は拒否と返電された。戦傷者やマラリアに感染者など、絶望的な戦況となった。アメリカ軍は、6月25日にはタポチョ山の山頂に到達して、6月26日まで争奪戦を繰り広げた。激しい白兵戦後に6月26日中には山頂はアメリカ軍の支配下となり、日本軍は夜襲も撃退された。6月27日にはタポチョ山はほぼアメリカ軍に制圧された。少なくなった戦力で日本軍の抵抗は続けて、まだバンザイ突撃は少なく、多数のアメリカ軍を戦死傷される遅滞作戦で戦った。6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討されて、残存部隊はガラパン方面に撤退した。タポチョ山の戦いで、アメリカ軍の死傷者は約3,987名にも上った。サイパン島の戦いで全滅して日本軍は約3万人が戦死して、民間人は約1万人が戦死して、アメリカ軍は約3,551人が戦士した。