1931年10月には、中国共産党は江西省瑞金に中国ソビエト政府を樹立した。11月7日に中国ソビエト共和国憲法を決議して、共産党内における粛清が強行された。テロ行為により、数千人にも及ぶ反革命派らが悲惨に処刑された。その後の4年間で約128,075人も殺害された。中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑が強行した。街路上において、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行した。さらに首切りした死体を切り苛めた(支那: 列国に於ける共産主義運動, 1936年)。断頭するのに、囚人はひざまづいて並び、両手を後ろに縛られた。処刑人が刀を振り上げて切ると、囚人の頭は地面に転がる前に躊躇していた。頸動脈から大量の血液が噴出し、身体は急に脱力してゆっくりと血の海に倒れ込んだ。近年は公開処刑の首切りは、世界でサウジアラビア、カタール、北イエメンの3ヵ国のみである。
中国国民党の孫文は1924年に中国共産党に門戸を開放した。1925年3月12日に孫文が北京で死亡した後に、国民党内の左右派の抗争が勃発した。5月15日に、上海日本紡績工場の中国人労働者がストライキを挙行して、大衆デモに発展して5月30日に、警察隊が発砲して、死者4人と負傷者24人を出した五・三〇事件が勃発した。国民党の蒋介石は、中国農民を階級闘争に巻き込む中国共産党に対して、1926年3月20日に広東でクーデターを断行して、7月初旬から全広東軍を北伐させた。12月に占領した漢口に武漢政府を移管した。1927年1月30日に漢口にて英国租界を襲撃した。漢口だけで1926年1月から5月までに、反革命者約3,252人、反動家約1,461人など約7,433人が射殺された。国民党の蒋介石は、3月22日に北伐軍を上海に侵攻させて中国共産党を弾圧した。4月上旬には、南京と広東にも武装解除して、南京政府を樹立した。
1927年12月11日に、広東で中国共産党の暴動が勃発した。軍事力が優勢な国民党軍が、広東に侵攻して一網打尽に蹂躙した。広東は、一気に阿鼻召喚の巷と化して、約2,000以上もの多数の老若男女が殺戮された。共産党は、上海・武漢・広東でも悲惨な敗退を繰り返し、絶滅を免れるために、全てが山脈が防壁となる中国の奥地の江西省に遁走した。共産党は、江西省にて無知なる農民大衆の洗脳を強化して、土地・金銭・生命を略奪した。1931年2月と7月に、国民党軍が近代兵器の討伐軍を派遣したが敗退した。国民党軍による持久的遮断と封鎖により、兵站が途絶えた共産党軍は1934年7月に瑞金を放棄して、1936年11月まで陝西省延安への長征を挙行した。