ベイルートの難民キャンプで、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、サブラとシャティラの大虐殺事件が勃発した。避難して来た義足の老人が、虐殺された。老人の杖は離して、路地のくぼみに転落して絶命した。大虐殺は9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りで勃発した。午前5時頃に、10数人の民兵がある家に侵入して、家族を外に引き出した。夫や弟、甥をある家の前の壁に並べて、自動小銃を掃射した。虐殺されて崩れ落ちたところを、ナイフやバルタの手斧を持った民兵が襲い掛かって、とどめを刺した。惨劇は、通りに出たところに、父親と妹の死体などが散乱した。サブラ通りは死体で埋まった。腹を切り裂かれた女性の死体もあり、女性も子供も無差別に虐殺されれた。死体の多くはひどく切断され、若い男性は去勢され、一部は頭皮を剥がされ、一部はキリスト教の十字架が体に刻まれた。路地の壁に喉が裂けた子供たち、胃を切り刻まれた妊婦、目を大きく開いた黒ずんだ死体、投げ込まれた無数の赤ちゃんや幼児ゴミの山が散乱した。
サブラとシャティラの大虐殺は、レバノン・ベイルートのサブラ地区と隣接するシャティラ難民キャンプで、キリスト教徒派を主体とするレバノン右翼政党のカタエブ党(別名ファランジュ)に近い民兵により、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、広範な大量虐殺が勃発した。パレスチナ人およびレバノン・シーア派市民の約762〜約3,500人が大量虐殺された事件である。イスラエル国防軍(IDF)がキャンプを包囲している間に、民兵による広範囲な虐殺が行われた。民兵は、イスラエル国防軍による西ベイルートへの作戦の一環として、サブラ・シャティラからパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘員を排除するように命じらた。PLOが弾薬を豊富に蓄えている無数の地下壕には武装集団が約200人ほどいると誇張した。大量虐殺が執行される中、IDFは残虐行為の報告を受けたが、虐殺を防止・停止する行動も取らなかった。大虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に虐殺の間接的な責任があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、虐殺が起こっている報告が出ていたのに、制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。イスラエル軍もシャロンも、虐殺の直接的な責任を問われていない。
イスラエル兵がファランギストの民兵を退去させると、数百人が死んでいた。レバノン警察の発表では約460人、イスラエル情報局の推計では約700-800人が殺害されたと推定した。レバノン側の公表によると、死者には約35人の女性と子供が含まれた。残りは男性である。パレスチナ人、レバノン人、パキスタン人、イラン人、シリア人、アルジェリア人なども含まれた。レバノン軍の主任検事の調査では、死者約460人(うち女性約15人、子供約12人)を数え、イスラエル情報局は死者を約700-約800人と推定し、パレスチナ赤新月社は死者約2,000人と主張した。