大東亜戦争にてビルマでインパール作戦の白骨街道を敗退して撤退した途上で死亡した日本軍兵士の膨大な頭蓋骨を、1956年に発見して集積された。大東亜戦争の1944年3月から6月にビルマにおけるインパール作戦の白骨街道は、敗退した日本軍の退却路であった。日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、空と陸からイギリス軍の攻撃を受けながら、撤退して行った。飢えて衰弱した日本軍兵士はマラリヤや赤痢に罹患し、負傷した身体を引きずって、白骨街道を約7万人の日本陸軍兵士たちが退却した。
白骨街道の途上で約4万人の日本軍兵が死亡して、無事に帰還できた者はわずか約2万人であった。途中の退路には、日本軍兵士の白骨の死体や腐乱した死体が点々と折り重り散在して、白骨街道と呼称された。道筋では、死亡して約1か月経過すると死体は白骨となった。一週間程度の死体からはどす黒い汁が流れ出た。黒い大型の蠅が群がって、黒い大きな固まりが散在した。大量の蛆が、死体を貪食しながら動回り、すさまじい死臭であった。
直前に息を引き取った死体が、道端に腰掛けて小銃を肩にかけ休んだ姿勢の死体もあった。手榴弾を抱いて爆破し、腹部が飛び散り血液が流れ出た死体があった。飯盒と水筒も散乱して、ガスが充満し牛腹のように膨れた死体もあった。白骨をたどれば、先行部隊の行った方向か分かり、白骨街道と呼んだ。白骨の道標を頼りに歩き、ぬかるみは少なく山道で緩い登り下りであった。雨があがり晴れれば、熱帯、強い太陽か照りつけた。暑く、衰弱しきった身体には猛烈に厳しかった。イギリス軍は、日本軍の退路にもしばしば出現して、容赦なく銃弾を浴びせた。射殺された日本軍兵士の死体、伝染病に罹患して餓死した死体や動けない日本軍兵士は、集団感染を恐れ生死を問わず、ガソリンをかけ焼却した。
インパール作戦はインド北東部の都市インパールを目指して、ビルマ北部で展開された戦闘で、日本はインパールから敗退した。インパール作戦は、インド・ビルマ方面における日本軍のほぼ全軍と、イギリスのインド駐屯隊のほぼ全軍の大会戦であった。イギリスはインパールに約15万の兵力を展開し、日本軍は約9万であった。補給を無視した無謀なインパールの戦いであった。食料や弾薬がないだけでなく、医薬品もない。ジャングルの中で、ひるも、虫もいる、マラリアもデング熱もアメーバー赤痢もある。飢えや病魔とも闘わった。日本軍は、白骨街道を潰走して撤退した。マラリアに犯され、敵弾を受けて負傷し、食物もない痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めて白骨街道に変わり果てた。