長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に落下して炸裂した爆心地である松山町の交差点から約750m地点である。翌日の8月10日午後2時頃には、右奥には鎮西学院中学校の焼け跡があった。学生の援護義勇隊のグループが、担架を担いで北方の救護所がある道ノ駅に向かって行進した。その他に地域の住民らが、周囲の被爆地を探索して見渡しながら独歩していた。長崎本線の鉄道の右側の小高い丘の上にある崩壊した4階建てのビルは、鎮西学院中学であった。
鎮西学院中学校(現在の活水女子中学・高等学校)は、浦上川を眼下に見下ろす小高い丘の上で、爆心地から南西約500mと被爆距離が近く、校舎その他が全滅した。職員9人と生徒約130人(即死が約68人と後日死が約35人)が被爆死した。校舎は鉄筋コンクリート4階建で、4階が全部崩壊、3階は爆心に面した北側半分が崩壊し、火災により各階の内部が焼失した。雨天体操場、武道場、寄宿舎(2階建)の木造建築物は、倒壊して全焼した。校内にあった三菱電機及び三菱製鋼の二つの疎開工場も壊滅した。
長崎原子爆弾は、長崎市の工業地帯を爆撃の目標として、南の三菱長崎製鋼所と北の三菱浦上製錬所(魚雷製造所)のほぼ中間地点で炸裂した。後方中央の煙突は、三菱長崎製鉄所の一部であった。爆心地から南1.4kmに所在した三菱長崎製鉄所の従業員の犠牲者は、8月9日の出勤者である1,721人のうち死者は約1,406人(69%)にものぼった。死者の1406人の内訳は、会社員が189人、工場労働者が728人、工場実習生が118人、新規学徒動員が122人、女子勤労挺身隊労働者が26人、動員された学生が223人(教員を含む)であった。
三菱長崎製鉄所の工場は爆心地から約750mで主要建物は全壊し、瓦礫の中から数本の煙突と第4工場などの立ち上がった骨組みだけが残存した。産業機械も大きな被害を受け、ほとんどの機械が使用不能となり、工場は生産能力を失った。工場の建物は、硬い鉄骨がシュガークラフトのように溶けて、完全に折れ曲がった。北側の窓のサッシは、内側へ向かって陥没した。周囲から被爆者が次々と運ばれてきて、畳を敷き詰めた床の上に寝かされた。