欧米のジャーナリストとテレビ局員らは、1993年10月3日に、エリツィン軍と反乱軍との銃撃戦で約62人が殺害された。テレビ・センターの入り口前で撮影していたロリー・ペック(Rory Peck)はカメラを持ったまま殺害されて死体がうつ伏せになった。反エリチェン派とエリチェン派の銃撃戦に巻き込まれて殺害された。
10月3日夜のホワイトハウス襲撃前夜に、ルツコイの呼びかけに応じて、アルベルト・マカショフ将軍は約20人の武装分隊と数百人の民兵を率いて、オキスタンキノ・テレビ局の奪取を挙行した。その侵攻までに、オスタンキノにはすでに約24台の装甲兵員の輸送車と、エリツィン大統領に忠実な約900人の軍人によって防護されていた。ASC-3ビルに対して、最高ソビエト支持派のトラックが突っ込んだ。その後、原因不明の爆発音が聞こえて、最初の死傷者が出た。これを契機に、テレビ棟から内地の軍隊や警察が一斉に射撃を開始した。彼らは、ジャーナリスト、傍観者、負傷者を救おうとする人々を区別することなく、狙撃ライフルを含め、群衆の中に向けて、無差別の連射や単発の射撃を行った。その後に、最悪の事態が勃発した。ほとんどの人は、AEC-3の付近のオーク・グローブに隠れようとした。反対派の一人は、群衆が両側から木立の中に押し込まれ、APCとテレビセンターの屋根から4つの自動小銃のソケットから銃撃が始まった。公式発表によると、オスタンキノの戦闘では、建物内の2人を含む約46人が死亡した。
1993年10月4日午前10時には、戦車の砲撃で最高ソビエトの住居を守っていた多数の人々が死亡した。午前11時30分までに約158人が医療支援を必要として、そのうち19人が病院で死亡した。午後1時に人民代議員が、ホワイトハウスにいた人々の中に大きな犠牲者が出たことを報告した。14時50分頃、何者かの狙撃手が国会前に集まって人々を撃ち始めた。午後4時頃になると、防御側の抵抗が抑えられた。急遽に招集された政府の委員会は、直ちに死者は約124人、負傷者は約348人という悲劇の犠牲者を数え上げた。ホワイトハウス防衛隊の武器で殺された人は一人もなく、犠牲者はすべて政府軍の攻撃によると指摘した。国会議事堂の襲撃では合計約148人が死亡し、建物の近くでは約101人が死亡した。
10月4日に、CNNは独自の情報源から約500人が死亡したと公表した。新聞は、内戦部隊の兵士は、戦車の砲弾で黒焦げになり引き裂かれた約800人近い防衛隊員の死体を回収したと述べた。匿名の内務省関係者は、ホワイトハウスでは、女性や子供を含めて、合計約1,500体の死体が発見された。ホワイトハウスから地下鉄に通じる地下トンネルから密送され、市外に持ち出されて焼却された。わずか3日間でホワイトハウスから約1,575体の死体が運び出されたメモが残存した。
1993年春、人民代議員会はエリツィン大統領を罷免しようとしたが、結局、その動きは失敗に終わった。4月にはエリツィン大統領の信任を問う国民投票が行われた。国民投票の成功を受けて、エリツィンは人民代議員会の解散を発表した。大統領と代議士の衝突は続き、武力衝突にまで発展してしまった。最高ソビエトの支持者がモスクワ市庁舎に押し寄せ、エリツィンと彼に忠誠を誓う勢力が最高ソビエトの建物を砲撃した。公式の死者数は150人だった。一揆が鎮圧された後、州議会の新たな選挙が発表され、新憲法が採択された。