1970年5月9日に、ベトナム戦争中にカンボジアに侵攻入するアメリカ軍の装甲兵員輸送車と乗組員が、道端で死亡して散乱した2人の民間人の死体の脇を見詰めて通過した。カンボジアは中立国だったが、ベトナムで戦う共産主義勢力の聖域として長い間機能していた。南ベトナム軍のベトナム共和国陸軍(ARVN)とアメリカ軍は1970年春に、共産主義者の拠点地域を破壊し、ガンボジアの「北ベトナム化」を阻止するためにカンボジアに侵攻した。
ベトナム戦争が継続中の1970年3月18日に、カンボジアのロン・ノル首相兼国防相が、パリに滞在中のノロドム・シアヌーク王子に対するクーデターを起こした。ロン・ノルはアメリカと同盟を結び、ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)と南ベトナムの共産主義組織のベトコン(VC、ベトナム共産軍)をカンボジアからの撤退を要求した。
シアヌークビル港からベトナム民主共和国(DRV、北ベトナム)の補給活動を閉鎖し、南ベトナム国内のPAVNとVC軍に供給するホーチミンルートを閉鎖した。ロン・ノルはその後、カンボジア国境3県にいる推定4万~6万のPAVN軍に対し、絶望的に弱体のカンボジア軍を派遣した。アメリカはカンボジア軍に装備を提供し、10万人以上の兵員を抱えるも、共産主義勢力に都市部に追いやられた。
1970年4月14日から20日に、ベトナム共和国陸軍(ARVN、南ベトナム軍)は、国境を越えた数個大隊の作戦を展開して、共産主義者の主要な補給物資貯蔵庫を押収した。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)とベトコン(VC、ベトナム共産軍)部隊は、カンボジア内陸部に撤退した。カンボジア国内に最大約30kmまで、約5万人の南ベトナム軍(ARVN)と3万人のアメリカ軍が参戦した。アメリカ地上軍は6月30日までにカンボジアを撤退した。南ベトナム軍(ARVN)は1971年まで残り、数十万人の新たなカンボジア難民を生み出した。1970年4月29日から7月22日のカンボジア侵攻で、南ベトナム軍は638死亡して、アメリカ軍は338人死亡して、共産主義勢力は約11,369人が死亡した。