朝鮮戦争にてアメリカ軍の海兵隊は長津湖の戦いにて、長津貯水池からの撤退時にすべての死者を収容していた。特に中国人民義勇軍は極寒の天候のために戦闘による死傷者と戦闘以外の死傷者を出した。そこに潜入した中国人民義勇軍は、一部の凍死した自軍の死体から衣服を剥ぎ取っていた。中国人民義勇軍の介入後に アメリカ軍は史上最長の撤退を余儀なくされた。
朝鮮戦争の長津湖の戦いでは、1950年11月27日から12月24日まで、中国人民義勇軍の第9軍団の3個軍団が、飢えと寒さの厳しい条件下で、世界最高の武器と装備を持つアメリカ軍の第10軍と戦った。中共軍師団には1つの砲兵大隊しかなく、戦車の重火器も、動員可能な空軍もなく、小銃と迫撃砲、砲兵火力にて、北朝鮮の張津湖の一帯で激闘が繰り広げられた。北朝鮮軍は、アメリカ軍の北侵攻に抵抗して、その後にアメリカ軍部隊は史上最長の撤退をした。
11月27日夕方に、空には吹雪が舞い、北西の風は綿球大の雪を包み込み、次々と雪が舞い落ちた。夜の気温はマイナス40度くらいまで下がった。長津湖の周辺は北朝鮮で50年に一度の厳寒を体験をした その夜、中国人民義勇軍の第9軍団は長津湖の周辺に展開を完了した。第20軍は長津湖の西側に隠れ、第27軍は長津湖の北と北東で、米国軍を待ち伏せした。
アメリカ軍の第1海兵師団と第7歩兵師団に、中国人民義勇軍が待ち伏せに入った後に、約10万人の義勇軍が山から下りてきた虎のようにアメリカ軍に殺到した。長津湖の戦いは11月27日に勃発した。一夜の激戦の末に、アメリカ軍は勇猛果敢な中国人民義勇軍の第9軍団に包囲された。しかし、5方向に分かれ、包囲されたアメリカ軍を排除するのは至難の業で、長津湖の戦いは17日間も続いた。本来は包囲して殲滅戦であったが、異常気象と極端に劣る装備の影響で、破壊戦と化した。
長津湖の戦闘期間中、アメリカ陸軍2師団は、中共軍の包囲殲滅作戦に陥って、大きな被害を受けた。朝鮮戦争後に、アメリカ軍は戦死者を発表した。14,000人以上の死傷者のうち、7,300人が凍傷で、凍傷が死傷者の半数を占めていた。中国人民義勇軍の第9軍団は40,000人以上の死傷者を出し、そのうち28,000人が凍傷で死亡した。1950年12月15日から24日にかけて、北朝鮮の咸興市興南港から国連軍の約69,000人と北朝鮮における民間避難民の約64,000人が避難した。