1967年6月5日から6月10日までの6日間戦争の第三次中東戦争はイスラエル軍がアラブ連合軍を圧倒した。第三次中東戦争が終結して、イスラエル軍がシリア軍と戦闘したシリア戦線にて、殺害されたイスラエル軍兵士の死体が砂漠上に横たわった。生存したイスラエル軍兵士が、仲間のイスラエル戦死者の死体に向けて、慟哭しながら黙祷した。イスラエルは、六日間戦争と呼称した。
1967年5月18日に、ナセル・アラブ連合大統領はシナイ半島のガザ地区に駐留する国連軍の撤退を要求した。国連が撤退を受諾すると、5月22日にアカバ湾の封鎖を宣言した。ウ・タント国連事務局長はカイロにて、ナセル大統領と事態解決のために会談した。その間にも、イスラエル軍とアラブ連合軍の戦闘の準備が進行した。
1967年6月5日月曜日早朝に、イスラエル空軍がアラブ連合空軍を攻撃目標として、アラブ諸国の空軍機がほとんど壊滅した。イスラエル軍は3方向からシナイ半島の砂漠地帯に急侵攻して、シナイ半島に配置された約10万人のアラブ連合軍をミトラ峠で退路を断った。イスラエル軍はシリア戦線では守勢に回った。エルサレム旧市街地の周辺では、ヨルダン軍との激戦が勃発した。
6月6日火曜日にシナイ半島に侵攻したイスラエル軍は、シナイ半島からスエズ運河までの約3分の2を侵攻して、シナイ半島北部のパレスチナのガザ地区を占領した。旧エルサレムに向かったイスラエル軍は、ヨルダン軍と激戦しながら、エルサレム市街地に突入した。シリア戦線では、シリア軍の砲撃が強化された。国連安保理は、即時の停戦の決議案を可決した。
6月7日水曜日に、シナイ半島のイスラエル軍は、スエズ運河まで約35kmの地点に到着して、アラブ連合軍の全面的撤退が始まった。イスラエル軍は、エルサレム旧市街地を占領して、ユダヤ人の聖跡である「嘆きの壁」に立ち入った。アカバ湾を制するシャルムエルシェイクを占領して、アカバ湾の封鎖が解除された。ヨルダンは国連の即時停戦を受託した。
6月8日木曜日に、イスラエル軍はスエズ運河に到達して、シナイ半島の組織的抵抗は終結した。シナイ半島北部沿岸の地中海上を航行中の戦艦リバティ号は、イスラエル戦闘機に爆撃された。アラブ連合は国連の即時停戦案を受諾した。
6月9日金曜日に、イスラエル軍はシリア軍の山岳陣地に猛攻を加えて、シリア防衛戦を数カ所で突破した。ナセル・アラブ連合大統領は辞任を発表するも、国会及び国民はその撤回を強く要望した。エルサレムのアラブ難民は、退去してヨルダン領内に流入した。
6月10日土曜日に、イスラエル軍は、シリア戦線から全面的に侵攻した。ナセル・アラブ連合大統領は、辞任声明を撤回した。六日間戦争では、アラブ連合軍の死傷者が20000人を超えた。イスラエル軍は1000人以下の死傷者を出した。
1948年5月14日にイスラエルは独立を宣言した。アラブ諸国がイスラエル領内に侵攻して、パレスチナ戦争が勃発して、1949年に休戦が成立した。1956年秋に、ナセル・アラブ連合は、スエズ運河の国有化宣言で、スエズ戦争が勃発した。イスラエル軍はシナイ半島に侵攻した。1956年11月に休戦が成立して、1957年春にはアカバ湾は国際水路と宣言された。六日間戦争が終結して、イスラエルに対する中東各国の態度は冷たく、アメリカさえもイスラエル軍の占領地区からの撤退を要求した。コスイギン・ソ連首相は国連で、イスラエル非難演説を行った。その一方で、アラブ諸国の報復心は依然として盛んであった。