第二次上海事変から蘇州に侵攻した日本軍に無差別に殺害された蘇州市民の死体が散乱した。1937年8月中旬から11月15日にかけて、日本軍は蘇州市に約4,200個以上の爆弾を投下し、数千人の中国人の死傷者を出した。平門駅はほぼ完全に爆撃されて、一回の爆発で約300~約500人が死亡して、衛生列車や難民用のワゴンも破壊された。大人や子供があちこちで吹き飛ばされていた。さらに日本の爆撃機が天門の外に焼夷弾を落とし、約三日三晩燃え続けて、天門の周りは焦土と化した。日本軍は、掃討しては銃剣で刺殺したり、銃殺した。多くの女性は強姦され、少しでも抵抗すると銃剣で撃たれた。
1937年8月13日から上海で勃発した日中戦争にて最も激しい戦闘である第二次上海事変(淞沪会战)が、11月12日まで続き、日本軍による上海の占領で終結した。1937年11月5日に、日本軍は杭州湾北岸の金山衛などから上陸を開始して、上海の情勢は中国国民党軍にとって非常に劣勢となった。11月9日から、中国国民党軍は上海から撤退を始めた。日本軍は上海を占領すると、すぐに太湖の北岸と南岸から中国国民党軍を追いかけて、退路を断つために蘇州などを攻略した。
1937年11月19日に日本軍は蘇州に侵入して、蘇州の街はすべて陥落して日本軍に占領された。占領後の3日間が最も多くの火傷と殺害をした。東中市の地家橋から長門石道まで、昼夜を問わず火災がした。1937年11月21日付の朝日新聞によると、19日午後2時に日本軍が楼門から市内に入り、市内に散らばっていた中国国民党軍兵士約2,000人が日本軍の捕虜になった。 日本の上海派遣軍の司令部が、「囚人は全員殺せ」という密命に従って、全員が処刑された。退却していた中国国民党軍約2,000人が日本軍に捕らえられて殺害された。日本軍は、攻撃した蘇州の地域で、血みどろの殺害、略奪、焼き討ちなどの三光作戦による戦争犯罪を実行した。日本軍の恐怖政治に苦しむ中、多くの蘇州市民は衣食住に困窮し、生活の糧を得れなかった。蘇州の街では、あちこちでボロボロの服を着た蘇州の市民が道端で物乞いをした。日本が蘇州を占領した後に、通りには死体があふれて、約10日間放置された。蘇州市の都市部で約3,738人、田舎で約6,774人が殺害された。