ベトナム戦争において南ベトナムの首都サイゴンから北方に約145kmのアンロック(An Lộc)付近で、1966年6月30日にアメリカ軍と南ベトナム軍はベトナム民族解放戦線(ベトコン)と猛烈な戦闘が勃発した。アメリカ軍はベトコンから奇襲攻撃を受けて、その後にベトコンに対して激しい攻撃をして壊滅した。ベトコンは、カンボジア国境から約25km付近で、アメリカ軍を待ち伏せしていた。ベトナムとカンボジアの国境を結ぶ国道13号線では、アメリカ軍がベトコンから攻撃を受けて、アメリカ軍の戦闘機と爆撃機が攻撃を防御した。7月4日には、アンロック周辺の土面の道路上にベトコンのベトナム人の多数の死体が腐敗して散乱していた。北ベトナムの石油貯蔵所への空爆が集中しているにもかかわらず、地上戦はまだ南部で繰り広げられていた。
アンロックは、ビンフオック省の省都である。その後1972年に北ベトナムのグエンフエ攻勢により、アンロックはベトナム人民軍(PAVN)の戦略の中心地になった。カンボジアからの基地に近い補給路に位置した。アメリカ軍の爆撃を受けるのを減らすために、中立地点から物資を保護できた。ベトナム共和国軍 (ARVN) は、アンロック地域を防御するために、ビンフオック省に部隊を保持していた。1972年4月13日から7月20日にわたるアンロックの戦い中に、南ベトナム軍はPAVNとベトコンの連合軍によって劣勢に立たされた。1972年のイースター攻勢の中で約66日間も持続し戦闘となった。PAVNはアンロックをサイゴンから遮断するため、補給路の攻撃を開始した。補給路を制圧することで、約140km南にあるサイゴンへの補給路を遮断して、アンロックの戦いでARVN軍への補給が妨げられた。
1966年初頭に、南ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の数は約184,300人、南ベトナム軍は陸軍(ARVN)と地域軍および民兵を含めて合計約514,000人であった。北ベトナム人民軍(PAVN)は約40万人で、ほとんどはまだ北ベトナムに駐留していた。1965年に約5万人のPAVNが南ベトナムに侵入した。南ベトナムとラオスのPAVNに供給するためにホーチミン・ルートでの物資輸送を任務とする北ベトナム軍の559部隊は、約24,400人が関与した。アメリカ軍は1966年6月までに南ベトナムにおけるベトコンとPAVN兵士の数を、ゲリラを含め約28万人と推定した。アメリカのジョンソン大統領は、1966年12月に北爆の休止により、北ベトナム軍の攻勢が散発した。