ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)は、クロアチアのパルチザンを虐殺した。GFPは東ヨーロッパとバルカン半島の全域でパルチザン、ユダヤ人、任意の容疑者を対象とした虐殺行為を絶え間なく激化させて抑制が効かなくなった。反パルチザン部隊として、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppe)と協力して、ソ連のレジスタンスの容疑で捕虜になった戦闘員や民間人を死刑や拷問した。GFPは協力者の助けを借りて、家や村全体を組織的に焼き払った。GFPは、赤軍に解放される前に囚人を略式で処刑した。1943年に親衛隊と警察のGFP報告書には、東部戦線で約2万1,000人が一部は戦闘中に、多くは尋問後に射殺されたと記された。キエフ近郊のベラヤ・ツェルコフという町で、GFPは子供たちを殺す決定を第6軍の司令部に要望して、後に子供たちは銃殺された。1941年の夏から秋にかけては、ウクライナのジトミル地域でナチス親衛隊とドイツ国防軍からなる治安部隊による掃討作戦に、GFPは参戦した。GFP部隊の報告書では、東部戦線だけで約21,000人が実戦中に殺害あるいは尋問の後に銃殺されたと記録された。
秘密野戦警察(GFP)は、第二次世界大戦に向けてドイツ国防軍により設立された軍事秘密警察組織である。この部隊はスパイ対策、破壊工作、サボタージュ摘発、対プロパガンダ、軍事施設保護、軍法会議の捜査などといったドツ国防軍への情報提供や占領地及び戦地の警備任務を行うために1939年7月27日に編成された。GFPの要員は防諜警察 (Abwehrpolizei)とも呼ばれ、国防軍の防諜部の執行部隊として、占領下で対レジスタンス、パルチザン活動を取締った。共産党員の政治的粛清とロシア人の劣等民族絶滅(ホロコースト)」を執行した。ドイツ軍の占領地域で住民を監督して、放浪する老人や女性、子供を無差別に敵の容疑者として、憲兵やSDに引き渡された。歩き回って捕らえられ脱走した者は即決で銃殺された。GFP部隊は家や村々を焼き払う作戦も実施した。GFPは拷問や処刑から虐待と虐殺などの戦争犯罪を行った。1943年半ば以降に、GFPはすべてのドイツ軍の脱走兵やソ連軍から脱出した捕虜を追跡して処刑を命じられた。
GFPの事件は、1948年になって追試で扱われた。ニュルンベルク裁判が始まった1945年11月には、扱うにはあまりにも複雑な内容であった。連合軍検察側はSS、ゲシュタポ、SDを直ちに戦争犯罪の事実を集めたが、GFPの幹部は国際軍事法廷で起訴されなかった。逆に冷戦が始まると、多くの諜報機関が、スパイ活動や破壊工作を実行できるナチスGFP専門家を再雇用した。