朝鮮戦争中に、アメリカ軍兵士は白い雪原の中の山岳部を北方に侵攻した。アメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。1950年10月19日に中国人民志願軍は凍てついた朝鮮半島に参戦して戦局は再び動いた。約10万人以上の中国軍が奇襲をかけて、アメリカ軍を最も過酷で辺鄙な土地に閉じ込められて、気温は常に氷点下25度まで下がった。極寒の地域で、爆発物やブルドーザーがなければ狐穴を掘ることもできない。戦闘員は土嚢の代わりに凍った死体を積み上げた。ブーツの中で足が凍り、氷の塊になる。弾丸の傷口も凍り、暖房の効いたテントに入るまで出血が止まらなかった。
朝鮮戦争は、1950年6月25日、北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)が隣国の韓国(正式には大韓民国)に対して奇襲攻撃を行ったことから始まった。北朝鮮とソ連の予想に反して、米国は直ちに韓国に軍事支援を行い、国連安保理は北朝鮮に38度線までの撤退を要求する決議(国連安保理決議82)を採択した。マッカーサー元帥率いる国連軍は、最初の攻撃から数日のうちに大規模な反撃作戦を計画し始め、1950年9月のインチョン海戦でその頂点に立つ。インチョン攻略後、国連軍は北朝鮮軍を後退させ、首都平壌を占領し、鴨緑江で北朝鮮最北端の国境に到達した。1950年10月から11月にかけて、モスクワの密かな支援を受けて、数十万人の中国軍が北朝鮮に進駐し、韓国軍と国連軍を撤退に追いやった。1951年夏には、地上での争いは膠着状態に陥った。北朝鮮への空爆と局地的な戦闘や小競り合いは続いたが、その後2年間、両者の間で交わされた領土はほとんどなかった。1953年7月27日休戦協定に調印して紛争は終結した。休戦協定は、戦前の朝鮮半島の地理的分断を維持し、北朝鮮軍と韓国軍は軍事境界線の反対側で活発な警戒態勢を維持した。
1953年の戦争終結後、国防総省は約54,260人、戦死は約33,643人とその他の死約20,617人の合計である。北朝鮮の国勢調査報告は、1950-53年の朝鮮戦争中に人口の20%を失った。人口は1948年の約9,368,592人から1953年には約7,425,939人まで減少した。北朝鮮の民間人死傷者の総数は約120万人であり、爆撃で約282,000人が死亡し、約796,000人が朝鮮南部に逃亡あるいは行方不明となった。残りの約80万人の人口減少は、朝鮮戦争と自然の原因による死亡の総数と朝鮮日報は報告した。朝鮮戦争の犠牲は "忘れられた戦争 "と呼ばれている。
韓国軍は、戦死者は約227,800人、戦傷者は約717,100、行方不明は約43,500人、総死亡者は約984,400人の犠牲であった。中国軍の犠牲者数に関する広範な推定値は、約180,000人から約900,000人である。朝鮮戦争での中国軍兵士の死者数は、中国政府が公式な死者数を発表していない。朝鮮戦争が民間人に与えた影響は、特に悲劇的だった。朝鮮戦争による民間人の犠牲者は、死者、負傷者、行方不明者を合わせると、約3年間(1950-1953)で約300万から約400万人にのぼった。朝鮮戦争は、1960年、中国はソ連から離脱し、中ソ分裂の事件が起こり、すべての共産主義国の間に緊張が走った。