カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。
クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。
クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。
カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。