日清戦争において平壌の戦いが、1894年8月15日に勃発した。北朝鮮の平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。夕方頃に雨のために戦闘が中断されて、清国軍は平壌の高所を失って、約1日の戦闘だけで残った弾薬ではもう1日の戦闘を持続できなかった。食糧も尽きていることから、平壌の放棄を決定した。清国軍は、食料と弾薬が尽きて、わずか1日で平壌を捨てて午後9時から敗走を余儀なくされた。清国軍兵士は雨の中を群がって義州街道を北に向かって退却したが、日本軍の警戒線で追撃を受けて、清国軍兵士は甚大な犠牲を伴った。清国軍は、9月24日まで中国に全面退却した。
1894年8月下旬頃に、北朝鮮の平壌に清国軍が集結した。日本軍は速やかに平壌の清軍を撃破するために、9月15日早朝から、各日本部隊は一斉に突撃を開始した。16時40分頃には、清国軍は白旗を掲げて降伏した。夜の風雨の中を北方に向けて撤退した。日本軍は、9月16日朝に平壌を占領した。日本が清国軍を朝鮮半島から追放するための決戦となった。日本軍の侵略を加速させ、平壌を迅速に占領して、清王朝の国境を直接に脅かした。日本軍兵士の犠牲は戦死者は180人、戦傷者は約506人で、行方不明が約12人であり、一方の清国軍兵士は戦死者約2,000人、捕虜約683人であった。
1875年9月の江華島事件を起点として、1876年2月26日江華島条約(日朝修好江華条約)が締結された。朝鮮の独立を承認して、約65年ぶりに日朝修好が復活した。条約により、清国の朝鮮への宗主権を否認した。1894年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦争(東学党の乱)が、李王朝への反発から欧米や日本の侵入に対する反対運動に進展した。朝鮮政府は、鎮圧のために清国に救援を求めた。清国から朝鮮への出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵して清国軍と共同して朝鮮の内乱を鎮圧した。朝鮮への内政干渉を宣言して、清国は拒否すると、日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。1894年7月25日の日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)から成歓・牙山の戦闘が起点に、日清両国は8月1日に、両国とも宣戦布告して日清戦争が勃発した。