沖縄戦が終結する1945年6月22日の直前に、6月20日にアメリカ軍の第6海兵隊師団のアメリカ人兵士が、沖縄戦で戦傷して一人で取り残されて戦傷した赤ん坊を発見して抱いて見守った。沖縄南部の糸満市付近で、多数の沖縄住民が沖縄戦に巻き込まれて、避難して安全を求めて、アメリカ軍の前戦に飛び込んで来た。手榴弾で武装した沖縄女性が5人が殺害された。アメリカ軍からの拡声器からの投降勧告は、効果を発揮して、日本軍兵士と沖縄人の防衛隊の民間人が次々と投降した。多数の日本軍兵士と沖縄住民が、沖縄南端の絶壁の洞窟内にいるが、海上LCI船からの投降勧告に従って、二列に並び、アメリカ軍の前線に投降した。
沖縄戦の6月20日の当時のアメリカ軍戦況を、アメリカ軍戦時記録の第10軍G2秘密報告書から抜粋する。アメリカ軍の戦況は第3海兵隊師団は、侵攻を継続して、日本軍を2つの陣地に分断して孤立させた。日本軍を包囲して、全方向から圧倒した。各地に分散していた多数の日本軍兵士集団を撃滅した。日本軍組織は崩壊して、死にもの狂いで抵抗した。アメリカ軍海兵師団は、さらに約460mから1460ほどm進軍した。沖縄南部の糸満市新垣を占領して、糸満市米須で海兵師団が合流した。
沖縄戦の6月20日の日本軍の戦況を、アメリカ軍戦時記録の第10軍G2秘密報告書から抜粋する。日本軍は糸満市の79高地、81高地、72高地でアメリカ軍に強力に抵抗した。それ以外の地域は散発的で減弱した。2つに分断されて孤立した陣地の日本軍兵士は、狂信的にアメリカ軍に抵抗した。午後8時30分頃に、アメリカ軍海兵師団の左翼に日本軍は反撃するも、撃退されて、日本軍兵士約51人が戦死した。日本軍から散発的な大砲と追撃砲の攻撃を受けた。日本軍歩兵が夜間に、多数の切込み攻撃があり、日本軍兵士は約80人が戦死した。次いだ日本軍歩兵の切込み攻撃で約30人が戦死した。昼間に、日本軍の抵抗は72高地を中心に約300人の日本軍兵士が、貧弱な武器で狂信的に戦闘した。時折に、日本軍兵士が爆弾を抱えて、アメリカ軍戦車に自爆攻撃をした。午後6時頃に、約304人の日本軍兵士を捕虜にして、その他に多数の日本軍兵士が投降した。
第1海兵隊師団の戦場では、夜間の日本軍の斬り込み攻撃で、約23人の日本軍兵士が戦死した。81高地の日本軍が、アメリカ軍海兵師団に対して、自暴自棄の戦闘を継続した。糸満市米須で孤立して貧弱な兵器で強力に抵抗していた日本軍に、丘陵地帯で衝突した。夜間の攻撃で、日本軍兵士の約122人が戦死した。その中に手榴弾で武装した沖縄女性5人が戦死した。日本軍を全方向から各陣地を包囲して、日本軍兵士が全滅する玉砕が続いた。
糸満市新垣と真栄平との間の前線に、鉄製ドア付きのコンクリート製のトーチカが残存した。真栄平の郊外では、日本軍が猛烈に抵抗した。リッキー丘陵での猛烈な日本軍の抵抗は制圧された。新垣に潜伏していた日本軍が強力に抵抗したが、日没までに占領された。夜間の攻撃で、日本軍兵士の約288人が戦死した。午後8時30分頃に、左翼から6月20日中に反撃した日本軍を撃退して、日本軍兵士約50人が戦死した。