太平洋戦争にて日本軍の捕虜となったアメリカ軍兵士の死体が、1945年5月に解放されたフィリピンのミンダナオ島南東のダバオ流刑地のダペコール(Dapecol)捕虜収容所で発見された。彼は病院の外科手術室の深い洗面台から水を飲もうとして立位で死んだ。彼には終末期の悲劇的な最後の一杯の水となった。彼の死体は、ダバオの捕虜収容所が解放された時に発見された75人の犠牲者の一人だった。
第二次世界大戦のフィリピンのミンダナオ島にあった日本軍のダバオ流刑地の捕虜収容所で、捕虜のアメリカ軍白人兵士の死体が発見された。その死体は、ミンダナオ島にあるダバオ流刑地でアメリカ軍が撮影した。この死体は、ダバド流刑地の捕虜収容所の建物内で発見された75体のうちの1体であった。アメリカ白人男性の死体は、病院の外科手術室の深い洗面台から飲物を取ろうとして、立位の姿勢のまま倒れて死んだと推定された。
日本軍が捕虜収容所にしたフィリピンのダバオの疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬となった囚人の死体が発見された。太平洋戦争にて1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオの捕虜刑務収容所に拘束された。そのアメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人が死亡した。
1944年4月下旬から6月中旬のダバオ市周辺の戦闘で、アメリカ軍は死者約350人、負傷者約1,615人を出した。日本軍は死者約4,500人、捕虜30人を出した。州内の他の場所でも激しい戦闘が繰り広げられ、両軍からさらに多くの兵士が恐ろしい損害を被った。日本軍は、ダバオから撤退した頃には、戦闘でほぼ壊滅状態になった。