1967年10月9日、エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)ら22人のゲリラ部隊は、アメリカのグリーンベレーとCIAの諜報員に訓練、装備、指導されたボリビア軍兵士によって捕獲されて39歳で死刑に処された。1967年10月10日に、バジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストが、ゲバラの死体を囲んだ。洗濯台下には、2人のゲリラの死体が地面に倒れた。2人とも胸部を露出して、体の傷口には緋色の血がついて、ショールを巻き、あごひげを生やした。
1967年10月7日、ある情報提供者がボリビアの特殊部隊にユロ渓谷に、ゲバラがゲリラと野営している場所を知らせた。10月8日に、20人前後のゲリラ部隊と、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉が率いるボリビア政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられた。ゲバラは縛られて10月8日の夜に、近くのラ・イゲラ村の荒廃した泥の校舎に連れて行かれた。10月9日の朝に、ボリビアのレネ・バリエントス大統領はゲバラの殺害を命じた。ゲバラがボリビア軍との戦闘で戦死したように見せるため、ゲバラの頭部を撃たないように命じた。
マリオ・テランという27歳のボリビア軍の軍曹が、ゲバラを処刑するために小屋に入った。ゲバラは10月9日午後0時45分頃からテランにより全部で9発撃たれ、足に5発、右肩と腕に1発、胸と喉に1発であった。絶命せず、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて殺害した。10月9日に午後1時10分に死亡が確認された。処刑後にに、ゲバラの死体はヘリコプターの着陸用スキッドに括り付けられて、検死と防腐処理のために、ボリビア南東部のバジェグランデの病院に運ばれた。10月10日に病院の洗濯台でコンクリートスラブの上に横たわるゲバラの写真が撮影された。1997年までゲバラの死体は行方不明で、バジェグランデの集団墓地に埋葬された。再発掘された遺体は、キューバに送還され、1997年にキューバ国家の栄誉を讃えて再び埋葬された。