1945年5月25日のアメリカ軍による東京大空襲の後に、5月27日に警察官が青山警察署横に集められた焼死体、所持品や死体の特徴をメモした。日本の警察官が、首都である東京の焼夷弾の空襲直後に、瓦礫と死体が散らばる東京の通りの真中に立って検死した。
東京大空襲は、1944年11月14日以降に約106回の空襲をアメリカ軍の爆撃機B-29から受けた。特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。1945年5月24日未明に、東京の山の手地域と空襲で焼け残った東京の都市全体を空襲目標とした。約525機の爆撃機B-29が、渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。翌日の5月25日深夜には、焼夷弾による空襲の被害を受けなかった東京の残存地域を空襲目標とした。アメリカ軍の約470機の爆撃機B-29が、約3,000トンの高性能焼夷弾を投下した。空襲の被害は、東京の山の手方面を中心に、南多摩・北多摩にまで及んだ。
5月24日未明の東京大空襲は、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲された。約520機の爆撃機B-29が、3,646トンの焼夷弾を投下した。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは約762人、東京都の調べでは約530人であった。
5月25日から5月26日の東京大空襲では、5月24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にて西部住宅地が空襲された。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失した。この地域の空襲では、高層のコンクリート建築の建物もあり、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も投下された。約464機の爆撃機B-29が、約3,258トンの焼夷弾と約4トンの爆弾を投下した。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは約3,242人、東京都の調べでは約3,352人であった。
太平洋戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がされた。東京都独自の見舞金も支給された。しかし、戦後、軍人・軍属と民間人への特別の措置が廃止された。サンフランシスコ講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活した。民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままである。ただし、日本人の勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属と位置づけ、最初は、軍人・軍属と格差はあるも、同様な援護を措置した。