7/07/2023

Guard members take custody of corpses killed in the March 10, 1945, air raid on Tokyo. From early in the morning of March 10, military, police, and firefighters work to dispose of the bodies of those killed in the U.S. air raid on Tokyo, and to confirm the number of dead.

 1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。焼死体は炭化して原型をとどめなかった。遺品から死者数を割り出した。鉄かぶと、ボタン、がま口の口金などで推定した。身元不明者が多く、都内70ヵ所からの公園、寺院、学校などに仮埋葬された死体は約7万7,000体を超えた。警視庁発表では, 3月10日の死者は8万3,793人で、傷者は約4万918人となった。3月10日の死傷者数は計12万4,711名 (警視庁) から, 19万6,132名(帝都防空本部)までの開きがある。

 3月9日夕にマリアナ基地から爆撃目標である東京に飛び立ったB29爆撃機は、日本大本営発表は約130機だった。アメリカ軍側発表は約325機、合計約1,700トンの高性能焼夷弾を搭載した。3月9日22時30分に、警戒警報が発令された。

 本格的な東京大空襲爆撃は、3月10日の零時の打刻の直後であった。3月10日零時8分に、アメリカ軍B29爆撃機の先頭機が, 深川地区(現在の江東区)に侵入して、第一弾を投下した。木場2丁目付近に被弾して、次いで白河町2丁目、三好町1〜2丁目付近も被弾した。材木町から最初の火災が発生した。束ねた材木も無数の運河に浮かぶ丸太も、マッチ棒のように火を噴きはじめた。2分後の零時10分に、火災は隣接した城東区 (江東区) にも発生した。北砂町2〜5丁目付近が帯状に被弾し、約2分経過した12時12分には本所区 (墨田区) が空襲された。一区当り約20〜25万人からの過密地帯の町を、猛火はわずか約2分間隔で跳躍した。第一弾投下から約7分遅れて、零時15分に空襲警報が発令された。7分差の遅延が、逃げまどう庶民にとって致命的な瞬間になった。

 焼夷弾の豪雨は、本所区を南北に縦断し、直線上の大火流線は、運河で刻まれた江東地域を包囲した。3月10日零時20分に、火災は浅草区(台東区)にも発生した。牛込区 (新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区 (文京区)、麹町区 (千代田区)、芝区 (港区) なども相次いで被弾した。独立火点が次々に合流し、一挙に大火流になった。浅草区、日本橋区に広範囲に拡がった猛火は、甚大な火の粉を吹きあげ撒き散らし、巨大な火玉となって宙を飛び交い、幅約200メートルの隅田川を越えて、向島区 (墨田区)と合流した。真紅の火炎帯は、わずか半時間のうちに下町全域へと波及した。B29爆撃機は、目標の周囲に火の壁を作った後、逃げまどう人々にねらいを定め、電柱や屋根に接近した超低空で、連続波状的な無差別焼夷弾爆撃へと移った。

 北北西の風はさらに勢いを増し、地上の大火災にあおられ、火の海の沸騰となり、瞬間風速25〜30mに達した。火は風を呼び、風により火事嵐となった。地表の温度が白熱状態になり、炎は瞬間的に激流した。火の玉は不気味なとどろきを上げて、道を走り、川を渡り、家屋をつらぬき、逃げまどう人々を、つぎつぎと渦中に巻きこんだ。各署の消防自動車は消火活動に全力を上げた。直撃弾を受けて隊員もろとも火の塊になったのを皮切りに、次々に大火流に呑まれ車を焼失し、隊員は猛火の餌食になった。東京都消防隊の犠牲は、消防自動車焼失が約96台、水管焼失が約1,000本、隊員の焼死、行方不明は125人、警防団の死傷者500名以上にもなった。

 主な犠牲者は、非戦闘員の女、子ども、 年寄りの下町庶民であった。住居を無断で退去、避難とは防空法で固く禁じらた。危機的状況でも、バケツリレーなどの防火手段に身をゆだねた。人々は、あきらかに逃げおくれた。被害の中心地の江東地域は、荒川放水路と隅田川とに挟まれ、縦に横に無数の運河で刻まれた。橋が焼失して、運河は人々の退路を断った。水中へ難を逃れた人は多かったが、一命を取りとめた人はすくない。両岸から火炎と熱風、黒煙が川面を吹きなぐり、水面から首だけ出した人びとは一瞬に髪を焼かれて死んだ。火炎の前に煙にまかれて一酸化炭素で中毒死した人、 酸素の急速な減少によって窒息死した人、水温のあまりの低さのためのショック死、凍死、溺死も多かった。

 避難場所と指定された学校校舎に逃げこんだ人々も、ほとんどが痛ましい犠牲となった。安全なはずの鉄筋コンクリートの建物は、たちまち窓ガラスが溶け、荷物や衣服に火炎がまとわりついて白熱状態となり、建物もろ とも人間焼却炉に一変した。炭化した死体が何層にも山積し、講堂がぎっしりとカン詰め状態になった。火に追われた人びとが入口からなだれ込み、先の扉は内扉になって、開扉するひまなく大勢の人びとが積みかさなり、 悲惨な状態に至った。空襲警報の解除は、3月11日午前2時35分で爆撃は終了し、B29爆撃機の機影はなくなった。地獄の却火が鎮火したのは, 明方午前8時過ぎであった。一夜明け東京は、見るも無残な廃墟と変わった。東京29区に被害が波及し、約27万戸の家が焼けて、約百万人からの都民がその住居を失った。