アメリカ軍の歩兵部隊が洞窟の陣地入口をつぶしながら摺鉢山に上っていった。日本軍は地上に姿を見せず、不意に地下の洞窟の入口から飛び出して、肉薄攻撃を繰り返して多数の死体が散乱した。地下陣地に潜伏した日本軍を、アメリカ軍は火焰放射器で洞窟内を攻撃し、入口を爆破し塞いだ。殺害された日本軍兵士の多数の死体が、硫黄島に散乱した。日本軍の攻撃はやがてゲリラ戦術に変わり、爆薬ごとに戦車に体当たりした。
1945年2月19日早朝、アメリカ軍は硫黄島を大小の艦船約450隻で取り巻き一斉に砲撃を開始した。その後艦載機約120機が約10分間にわたってナパム弾を投下して、艦砲射撃が再開した。硫黄島上陸の直前の約30分間に約8,000発を撃ち込んだ。
空爆による硫黄島の日本軍の損害は、戦死約75人、重傷約53人、軽傷約63人に止まっていた。日本軍の約21,000人は地下に構築した複郭陣地に潜って、洞窟式交通路によって連絡された。
日本軍は、アメリカ軍の上陸部隊を引きつけて攻撃を始めた。海岸の橋頭堡は大混乱に陥って、上陸第一波の8個大隊は正午までに約5分の1から4分の1が死傷した。2月19日中に上陸した約31,000人は、全体では約8%の死傷者を出した。2月20日からアメリカ軍は最大の陣地の摺鉢山と千鳥飛行場の占領に全力を傾けた。全体が岩でできている摺鉢山に、上陸3日目の2月21日に、艦載機が空爆を繰り返し、艦砲射撃が休みなく注がれた。2月22日にアメリカ軍上陸して約51時間後の死者数を約644人、負傷約410人、行方不明約560人と公表した。全米で犠牲者が多いと非難が巻き起こった。
摺鉢山は2月23日に占領されたが、2月23日に摺鉢山山頂に星条旗を掲げた写真で全米が感激した。日本軍の徹底抗戦は続いて、アメリカ軍は歩兵部隊が侵攻した。硫黄島の中央部・元山飛行場から玉名山を結ぶ線の洞窟から、砲兵隊の速射砲がアメリカ軍の戦車部隊を2月22日から約2日間阻止した。2月24日に元山飛行場をめぐり白兵戦が勃発して、日本軍は一時的にアメリカ軍を撃退した。アメリカ軍は戦力の増強をはかり、2月27日に元山飛行場を占領した。アメリカ軍は約8,000人が死傷して、日本軍も約10,000人が死傷したと推定された。3月14日、大本営あてに訣別の無電を打ち、3月24日に約400人がバンザイ突撃で組織的抵抗が終結した。残存兵は地下に潜り続け、終戦後に捕虜となった者は、最終的に約1,000人であった。