1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。オスマン帝国の支配下にあったマケドニアの解放のためにたゆまぬ戦いを続けた。中世ヨーロッパでは斬首は高く評価された。貴族にのみ首を切り落とされ、農民や職人は絞首刑や溺死した。20世紀になり、西洋文明によって斬首が非人道的で野蛮と認識された。現在、死刑の斬首は、中東諸国のカタール、サウジアラビア、イエメン、イランでのみ執行された。
1903年8月に、イリンデン・プレオブラジェニエ蜂起が勃発した。約26,408人の反乱軍が、約35万人のトルコ正規軍と非正規軍を相手に生死をかけた戦いを繰り広げた。約3ヶ月の抵抗の後、蜂起は血に染まって鎮圧された。反乱軍は約994人が戦死傷して、民間人が約4,694人が死亡した。オスマン・トルコ軍は、約5,328人が戦死傷した。
19世紀にオスマン帝国の力が低下すると民族主義的思想が普及し、バルカン半島全体に動揺をもたらした。ギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが独自の学校を設立し、言語を基にして民族性を築いた。ブルガリア正教とセルビア正教がギリシャ正教から独立した。バルカン半島のスラヴ人がギリシャ語でなくスラヴ語で説教をする教会に行けた。バルカン半島では国籍の概念が浮上し始めた。19世紀の蜂起と戦争の結果、ギリシャ王国、セルビア王国とブルガリア王国がオスマン帝国から独立した。マケドニア地方はオスマン帝国の領土内に留まった。
1893年にオスマン帝国のマケドニア地方に住むスラヴ系の革命家が、マケドニア地方と住民の独立を目指した政治的革命組織である内部マケドニア革命組織(VMRO)を設立した。VMROは民族や宗教に関係なく、マケドニア地域の住民であれば誰でも参加できたが、主にブルガリア人で構成された。VMROが設立され、言語や宗教的な区分を基に成立したブルガリア人やギリシャ人という民族性とは別に、新たなマケドニア人という民族性が築かれた。
VMROは1903年にオスマン帝国に対する大規模な蜂起を起こした。イリンデン蜂起と呼ばれた。イリンデン蜂起は、マケドニア地方全体に広まった。オスマン軍によって瞬く間に鎮圧された。VMROは、マケドニアの独立を主張し続けるグループと、ブルガリアの首都ソフィアを拠点としてブルガリアへの併合を目指す、より過激なグループに分かれた。
1910年代に、バルカン半島は第一次世界大戦を含む戦争に巻き込まれた。オスマン帝国は崩壊して、現代のトルコ共和国の領土以外を失って、バルカン半島一帯に大きな変化をもたらした。1918年には、中央ヨーロッパを支配したオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴って、主にスラヴ人が居住するオスマン帝国の南端部は、セルビア王国と一体化して、ユーゴスラビア王国が成立した。オスマン帝国の崩壊に伴ってマケドニア地方は分割され、現代の北マケドニア共和国の領土がユーゴスラビアの一部、マケドニア地方の南部はギリシャの一部、北西部はブルガリアの一部となった。ユーゴスラビアの下で、マケドニア地域の領土は南セルビアと改称され、言語はセルビア語の方言と見なされた。
第二次世界大戦後1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6つの国家の一つとして、マケドニア社会主義共和国が現代の北マケドニア共和国にあたる領土で設立された。セルビア、ブルガリア、ギリシャの教会とは別にマケドニア正教の教会も設立された。新しい国での民族意識が作られ、ギリシャとブルガリアの領土に当たったマケドニア地方の住民は、徐々にそれぞれの国民と同化した。