4/28/2023

The charred body of a U.S. Army sergeant killed by Indians. It was a common practice among the Indians to mutilate the dead. Corpses were scalped and often cut to pieces. Some pieces of the body, such as scalps or fingers, may have been used as war trophies, 1867.

 アメリカ先住民族のインディアンの投じた多数の弓矢が刺さって、1867年にアメリカ陸軍の軍曹が殺害された。インディアンは軍曹の死体を、腹部から両方大腿を切開した。死者の死体の切開は、インディアンの一般的な習慣であった。さらに死体の頭皮を剥がされたり、しばしば死体をバラバラにした。頭皮や指などの体の一部は戦利品として活用した。ラコタ族の習慣では、殺害した兵士を切り刻み、死体は下着姿か裸にされ、頭皮を剥がされ、手足を切り落とし、バラバラにされ、顔を潰され、内臓をえぐり取られた。

 アメリカ西部にて、グラタン虐殺が、1854年8月19日にネブラスカ準州(ワイオミング州)のララミー砦付近で勃発した。グラタン虐殺は、インディアンのラコタ族(西スー族)とアメリカ軍と、最初の公的な大規模軍事衝突が発生した。ラコタ族によって、アメリカ軍のジョン・ローレンス・グラタン(John Lawrence Grattan)少尉と約30人の部隊が虐殺された。アメリカ中西部の大平原では、数十年間にわたる血なまぐさいインディアン戦争が勃発した。

 1854年8月18日にモルモン教徒から分離した牛が、食料不足したインディアンらに屠殺され調理された。ララミー砦の守備隊に牛の損失を訴えた。8月19日にジョン・ローレンス・グラタン少尉と約20人の兵士が、インデアンのラコタ族・オグララ族・シチャング族などの領地に向かった。グラタン部隊とインデアン部族の緊張が高まり、グラタン部隊の銃撃によりラコタ族の1人が地面に倒れて、さらにグラタン少尉は一斉射撃を命じた。インデアンから逆襲され矢の雨がアメリカ軍部隊に注いだ。グラタン少尉と数人の兵士が殺害され地面に倒れ込んだ。アメリカ人兵士は四方八方に逃走した。インディアンは2人と馬を切りつけて殺害した。荷車にしがみついた兵士は矢に刺さり地面に落下した。乗馬したシチャング族は、追いつけた馬車から兵士を引き出し殺害した。

 1840年代から、アメリカ西部にヨーロッパ系移民の人数が急増し始めた。オレゴン、ユタ、カリフォルニア、太平洋岸に向かった。最も利用された移民ルートが、オレゴン・トレイルの陸路(Oregon Trail)であった。ミズーリ川沿いのインディペンデンスから出発し、大平原を横断し、低地のサザンパスを通り、ロッキー山脈を越えた。フォート・ホールの丘陵地帯の大草原を越え、スネーク川を渡り、通過困難なブルーマウンテンを抜けて、最後にユティラ川を渡って、オレゴン州北西部にあるコロンビアの町に向かった。1849年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こり、オレゴン・トレイルの移民数が急増し、年間約3万人近くから、1年後には約50,000人、1855年には約30万人の移民が通過した。1849年にアメリカ政府が買い取って、ララミー砦を軍の駐屯地とした。1851年に西部への移民の安全な通行を金銭保証するフォート・ララミー条約を、アメリカ政府はインディアン各民族と締結した。