1945年8月末に、広島原子爆弾による一部の被爆者が本川(ほんかわ)国民学校の臨時救護所に収容された。本川国民学校の外壁が焼け残った校舎は、広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となった。多数の被爆者が救護で集散して混乱を極めた。校庭では、一部の被爆死した被爆者の死体を集積してから火葬した。まもなく学校は,西校舎1階を中心に,負傷者を収容する臨時救護所となった。臨時救護所では,軍の衛生班をはじめ,近郊で生き残った者たちが被爆者の救護や遺体の処理にあたった。
本川国民学校は、爆心地から西北西約410mと最も近距離の学校であった。広島原爆の爆風は窓枠を吹き飛ばして、壁はくの字に曲がり、約4,000度もの熱線は校内を火の海と化し、教材は全て燃え尽きた。校舎は、鉄筋コンクリート造であり、構造は丈夫に造られて倒壊を免れた。校舎は外郭のみを残して完全に全焼と全壊した。約10人の教職員と1・2年生の低学年の児童や疎開できない児童の約400人の全員が被爆死した。原爆の炸裂時に運動場にいた子どもたちは一瞬にして原爆に巻き込まれて、爆風と熱線と放射線に被爆して、即死して真っ黒焦げになった。その中で偶然に約1人の先生と1人の生徒のみが生き延びた。3年生以上の児童は、1945年4月までに備後十日市・八次国民学校に集団疎開をして被爆を免れた。
爆風をもろに受けたL字型の校舎は、窓枠は吹っ飛び、壁がくの字に折れ曲がった。運動場で遊んだ子どもたちは一瞬にして真っ黒焦げ、爆風により壁に叩きつけられた。教室の中にいた子ども達は窓ガラスの破片を受けて重症に陥った。爆発時の強烈な熱線により自然発火した炎が窓から窓からにごうごうと一斉に吹き上げ、机、椅子・黒板・本・その他の天井板・床板などを燃やし尽くした。逃げ遅れた子ども達の死体が教室内で黒焦げで発見される。特に本川国民学校臨時救護所の被爆者は悲惨であった。床の上にゴロ寝した被爆者は、みな灰をかぶって、一見して生死の区別がつかなかった。膨大な被爆者を前にして、体動している被爆者だけを、二階の教室に運び治療をして、その他の人は見捨てる結果になった。