1918年8月8日に19歳のコススタンチン・イワノビッチ・ゲラシモフ(Konstantin Ivanovich Gerasimov)は、ロシア北方の白海にて連合軍の介入軍によって銃殺された。1918年7月25日、ゲラシモフはソビエト赤軍に入隊した。ソビエト赤軍に参戦してから、オネガ(Onega)湾に侵攻した。8月2日から、イギリス軍とフランス軍の連合国の軍艦は白海から入港して、アルハンゲリスクを占領した。連合国の介入軍は、オネガ湾の海岸まで進駐した。ゲラシモフは、パルチザン部隊に参戦した。オネガ湾の海岸町を占領した連合国の介入軍が、夜間から突如にパルチザン部隊を攻撃した。ゲラシモフは、パルチザンの幹部を援護して、白軍の将校を銃殺したが、負傷して連合軍の介入軍の捕虜となった。介入軍は、ゲラシモフとパルチザンの一味を拷問して、ゲラシモフを処刑するために、白海湾に浮かぶ蒸気船のコラ号に連行された。コラ(Kola)号の甲板上にて、ゲラシモフは8月8日に、介入軍に銃殺された。8月17日までに連合国がオネガ湾の海岸まで進駐して、9月4日にアメリカ軍がアルハンゲリスクの連合国軍に参戦した。
ロシア内戦への連合国の介入軍は、1918年から始まった多国籍軍の一連の遠征軍で構成された。連合国の介入軍はまず、チェコスロバキア軍団がロシアの港で軍需品と武器の供給を支援した。1918年から1920年に、チェコスロバキア軍団はシベリア鉄道全体とシベリアの主要都市を占領した。1919年までは、ロシア内戦の白軍を援護するのが目的だった。白軍が崩壊した時に、介入軍は1920年(日本軍は1922年)までに撤退した。
介入軍は、ドイツ軍によるロシアの資源の搾取を止めて、中央主権国家を倒し、ボルシェビキ革命後に、ロシア国内の連合軍の一部を支援した。連合軍は北ロシア介入とシベリア介入に、アルハンゲルスクとウラジオストクに上陸した。1920年9月のチェコスロバキア軍の撤退とともに、連合国は1920年に北ロシアとシベリアへの介入を終了した。日本軍のシベリアへの介入は1922年まで続き、1925年までサハリンの北半分を占拠し続けた。