ギリシア内戦下にて、アンダンテのゲリラに襲撃されたギリシア民主国民軍(GNA)は、カスタニア村に向けて迫撃砲を打ち込んだ。迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した。住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。爆死したアンダンテのゲリラの死体が横たわっていた。家族ならびに近隣の住民の夫人らが死体を取り囲んだ。その死体の胸の上には花束と、あの世に渡る代金である2ドル相当の1万ドラクマ札を供えていた。ゲリラの死体を取り囲み慟哭しながらキリスト教の唱歌を唱和した。
ギリシアのゲリラの拠点であったカスタニア村は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍の占領によって、約280戸のうち約260戸が破壊された。その後は約600人のギリシア人の住民が潜伏した。ギリシアのゲリラは、アンダンテと呼称された。1946年9月頃にアンダンテがゲリラ活動を再開すると、ピンダス連山の一帯に潜伏したゲリラを捕獲できずに、ギリシア政府軍の憲兵が立ち去った。
憲兵は、ゲリラ活動に対して厳重な経済封鎖で対抗した。ピンダス連山一帯の地域住民に対する食料から衣類など全ての日常用品の持ち込みを封鎖した。経済封鎖のの最大の犠牲者は地域住民であり、買い出しに近隣のカラバダ村に買い出すと、アンダンテのゲリラと容疑されて虐待と虐殺される危険性を伴った。
ナチス・ドイツ軍がギリシアを占領中に、ギリシア人民解放軍(ELAS)に参戦したアンダンテのゲリラらはレジスタンス運動をした。ギリシアの占領が解放されると、左翼のレジスタンス運動から共産主義の烙印を押された。地元では、その経歴から排他されて無職に陥った。逆に、対ドイツ協力派を含むギリシア民主国民軍(GNA)は、ELASを捕獲するため、ギリシア政府から武器を支給された。追い込まれたアンダンテのゲリラは、ピンダス連山一帯に致し方なく潜伏した。アンダンテのゲリラ部隊は、分裂して独立した個別集団となった。
ギリシャ政府軍は、1946年から1949年までに約48,000人の死傷者を出した。武装した反政府勢力はおそらくその死傷者の約半分を被った。しかし、両側の死の部隊は、数千人の民間市民を殺害して、さらに多くの人々が残虐行為、病気、飢餓で死亡した。内戦の結果として、約158,000人のギリシャ人が死亡したと推定された。ギリシャはほとんど経済的荒廃に陥った。
ギリシアからイタリア軍は1943年夏に、ドイツ軍は1944年9月に撤退した。共産主義系の民族解放宣戦(EMA)とゲリラ部隊である人民解放軍(ELAS)、国民共和ギリシア連盟(EDES)が占領に対抗した。1944年12月に、ギリシア国軍(GNA)は、イギリス軍の支援を受けて、EAMとELASを打倒した。EAMは地下に潜伏して、ELASはゲリラ戦のために山地に後退した。GNAは、アメリカから大量の軍事物資の供給を受けて優位に立った。
ギリシャが枢軸国軍から解放されて亡命政府が帰還した。1944年12月3日に十二月事件が勃発して、共産主義左派(EMA/ELS)と王党派右派(EDES)の間で対立が先鋭化して、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が、ギリシャ民主軍(DAG)というゲリラ部隊を組織した。戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が、マーシャル・プランで王党派右派政府の全面的な支援に乗り出した。さらに1948年以降にユーゴスラビアとソ連が対立して、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。