韓国の巨済島の捕虜収容所において、1953年6月に、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発した。連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。射殺された北朝鮮軍兵士の多数の死体は、収容所内に並列して安置された。雑誌LIFEには、死者の顔は撮影しない内規があったが、写真には多数の死体から多量の出血が流出して、全裸とされて下半身だけを毛布等で覆われた。もう1ケ月もすれば、韓国軍とアメリカ軍が、北朝鮮と休戦協定により、捕虜収容所は解放される予定であった。
巨済捕虜収容所(Geoje-POW
Camp)は、朝鮮戦争当時に、捕らえた朝鮮人民軍と中共軍捕虜を収容するために1951年2月に巨済市を中心に巨済島の一帯に設置されて、1953年7月まで運営された捕虜収容所である。韓国の南端の巨済島に位置した朝鮮戦争当時の捕虜収容所は、1951年2月末までに朝鮮人民軍捕虜約15万人、中国軍捕虜約2万人など、最大約17万千人もの捕虜を収容した。1953年6月18日に、連合軍の管理下にあった巨済捕虜収容所の北朝鮮への強制送還を拒否する反共捕虜の約27、389名を李承晩大統領が釈放させて、7月27日の停戦協定の調印に合意して収容所は閉鎖した。
休戦会談の最大の障害となったのは捕虜問題であった。国連軍の持つ捕虜は適正に管理されるが、北朝鮮の共産軍の捕虜数は半分以下しかない。中国と北朝鮮は、捕虜の全面的な交換を求めた。共産軍は捕虜を虐殺して、さらに捕虜を自軍に編入して戦闘に強要した。共産軍側はソウルやその他の都市を占領した時に、占領地域で多くの若者を強制徴募して北朝鮮軍に編入した。そのため捕虜の朝鮮人は、捕虜交換で北朝鮮に送還されるのを拒否した。中国軍兵士も含めて過半数が北朝鮮に帰還するのを拒否して、問題は複雑になった。巨済捕虜収容所では統制が緩いため、共産と反共産の捕虜が分離していない集団の中で多数の暴力事件が発生した。
1952年5月7日、共産捕虜は巨済捕虜収容所所長のアメリカ陸軍のFTドッド准将を拉致した。その釈放の条件として捕虜の処遇改善、自由意思による捕虜の送還方針の撤回、捕虜の審査を停止し、捕虜の代表委員団認定などを提示した。この暴動は、洛東江戦線にて、アメリカ軍1騎兵師団に降伏したイハクグらが主導した。アメリカ軍は交渉を拒否して対立して、アメリカ軍が発砲して捕虜が約70人死亡し、140人余りが負傷した。
共産捕虜は拷問・暴行・虐待などを拒否し、平壌からの指示に基づいて、1952年6月20日を期して全捕虜収容所で一斉に蜂起する反乱計画を立てた。新た国連軍司令官に任命されたマーク・クラークは、暴動事件を防ぐために捕虜の分散収容を決定して、HLボート准将を捕虜収容所長に任命した。6月7日から10日に釜山捕虜収容所で共産捕虜がガードに反抗している途中に1人が殺害された事件をきっかけに、改めて暴動が起きた。ボートナー准将は6月10日にドッド准将を救出しながら捕虜を分散収容し始めたが、その過程で105人の反共捕虜が共産捕虜によって殺害された。
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