旧ユーゴスラビアの内戦は、セルビアとクロアチアとの内戦から勃発したが、国連平和維持軍が関与するごとに戦火が拡大して悪化した。内戦地帯から離れたサラエボに設置された国連平和維持軍の司令部が、紛争の爆心地となった。1994年4月にボシュニャク(モスレム)側からの砲撃によって、セルビア人の子供が殺害されて犠牲者となった。夕食の支度をしていた子供に、ミサイルが砲撃して上半身が飛び散った。セルビア人の妊娠中の妊婦も殺害された。戦争中に約10万人が殺害されて、約220万人以上が難民となった。
1991年6月にクロアチアとスロベニアが独立宣言をした。クロアチアではクロアチア紛争が勃発して、少数民化したセルビア人を排斥した。最も複雑な民族が混在するボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国が、セルビア人がボイコットした国民投票により1992年3月に独立宣言した。セルビア人が対抗して分離独立を宣言して、衝突が深刻化した。セルビア共和国から軍事的支援を受けたセルビア人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍と対立して内戦に陥った。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで、1992年4月6日から1995年12月14日まで内戦が続いた。その民族の割合は、約44%がボシュニャク人(ムスリム)人、約33%がセルビア人、約17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。政府軍は、人口割合の高いボシュニャク(ムスリム)人が主導権を握った。ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が1993年まで優勢であった。
1994年に、アメリカの介入で、クロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を締結した。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人とクロアチア人の連邦国家の結成も決定された。アメリカによりセルビア人勢力を弱体化した。4月10日から11日に、北大西洋条約機構(NATO)がセルビア人勢力への小規模な無差別の空爆が実施された。8月5日にセルビア人勢力が国連管理下の武器集積所の襲撃に対抗して再度のNATO空爆が行われた。11月21日と23日に3度目のNATO空爆が実施された。1995年8月30日から9月14日まで大規模空爆を行った。1995年12月14日にパリで和平のデイトン合意された。