1951年に中国人民共和国の人民解放軍がチベットの首都ラサを占領して、チベットが中華人民共和国に編入された。ダライ・ラマは1959年にインドに避難していた。1966年のチベットの文化大革命の真っ只中に、神々に憑依された若い尼僧が、ラサから遠くない農村地域で、地方組織軍と人民解放軍に対して攻撃をしたニエモ(Nyemo)事件が勃発した。中国側の記録によると、ジェンロ派の約500人のチベット人の参戦者のうち、約105人の指導者が処罰されて、そのうち14人が死刑にされ、尼僧のチョドロンも含まれた。他の約400人は釈放される前に共産主義思想を強要した。毛沢東後の改革後の1980年以降も同じ事件が起こり、宗教的実践に関する政策が緩和されるたびに現在まで続いている。宗教的実践の根底にある記憶は決して消えず、源が何であれ、チベットの文化と社会の後進性に深く根ざした1966年に文化大革命が中国全土で展開し始めて、中国内陸部からの新しい紅衛兵の到着により、1967年初頭から地域党委員会内の指導者に対する文化大革命の闘争が激化した。急進的な革命グループが、最終的に結合してジェンロ派(革命反乱軍)を形成した。それに対抗して地域党委員会を支援するニャムドレ(Nyamdre)派が拮抗した。2つの派閥間で激しい戦闘が行われ、ラサの政府機関と近隣地域はどちらかの派閥によって支配された。この派閥間の紛争は、ニエモなどの農村地域でも発生し、チベット人と中国人の地元の指導者は、通常はニャムドレ派に立っていた。ジェンロ(Gyenlo)派が、地元住民の不満を利用する戦略で発展した。村人たちは政府への過剰な穀物販売に腹を立て、差し迫った農業の集団化を恐れていた。ジェンロ派は、この怒りをニャムドレ派の指導者たちに向けた。毛沢東の文化大革命のイデオロギーを利用して、当局に対する反乱を正当化した。
ジェンロ派は大衆を反乱に動機付けるために宗教を利用した。尼僧であるトリンリー・チョドロン(Trinley
Chödrön)が、自らをチベットの擁護者であり、伝説の神の英雄ケサルの叔母であるアニ・ゴンメイ・ギエモに取り憑かれたと信奉させた。彼女は信者に、仏教の敵であるニャムドレ派と戦うように信者に命じた。彼女は文殊菩薩の代わりと毛沢東を称賛し、彼に代わって彼女は行動していると主張して、信奉者に文化大革命を受け入れさせた。
ジェンロ派は神々の軍隊と呼称して、1969年6月から数週間にわたって、地域全体の政府と政府軍の同盟に対する攻撃を開始した。尼僧は敵と見なしたニャムドレ派の幹部や嘲笑した地元のチベット人を狙わせた。人民解放軍の援軍は最終的に、ニエモに送られ、秩序を再建して、チョドロンと神々の軍隊は処刑された。