長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市に投下されて炸裂した。爆心地からわずか約500mの城山町は、全域が壊滅して原爆死した。8月下旬頃に、城山町の荒野に「倉橋満嘉子の最後の地」と記載した小さな木製の銘板が突き刺さっていた。おそらく原爆死を免れたと思われる夫か父親のどちらかの身内が、妻や娘の遺体を火葬した後に、そこに目印として置いていた。その銘板の地下には、火葬した遺骨の一部は埋葬されたと思われる。その他の不詳不明の多数の多量の遺骨は、そのままに城山町の荒野にそのまま放置された。
長崎市城山町は爆心地からわずか500mの近距離で甚大な被害を受けた。秒速約250m以上もの猛烈な爆風と熱線を受けて、一体は崩壊して炎上した。城山小学校の近くの住宅は全滅で道路だけが残存した。まっ黒に焼かれた死体が散乱した。付近の浦上川は、長崎原爆の被爆者が水を求めて集まり、折り重なり死体で一杯であった。骨だけの上に皮膚がぶら下がった死体、真っ黒い顔の死体、一面焼け野原の中に無数の真っ黒な死体が転がり、異臭が漂っていた。城山町は全焼して、生存者でも生きながらに炎に包まれ焼け死んだ。泥水に水を求めて、無数の死体で埋まった。つかむように手を上げて、目をむき出して、すごい形相していた。被爆者は家族との再会を願いあちこち探しまわった。
城山町の周辺では、家屋や工場が一瞬にして破壊され、人間や動物が殺害された後に、数え切れないほどの火災が発生し、翌日8月10日の午前1時まで燃え続けた。空襲警報の解除後に原子爆弾が炸裂したため、避難所に避難したのはごく少数であり、結果として比較的大きな被害が出た。夏季であり、灼熱のためにうじ虫とひどい死臭のために、死体はすぐに火葬する必要があった。1945年9月中旬に長崎市を訪れたアメリカ海軍将校は、原子爆弾の炸裂から約1か月以上経過した後も、「死と腐敗の匂いが地域に広がっていた」と報告した。