日中戦争に向けて済南事件にて日本軍により、済南後方病院に入院していた中国軍の負傷兵が虐殺されて死体が散乱した。済南事件による中国人の犠牲は、国民革命軍と民間中国人を合わせて、約3,000人から約6,123人、負傷者は約1,450人から約1,701人と中国側の資料に記録された。日本人の犠牲は、日本人居留民の被害者は約400人で、死者は14人、虐待約30人、略奪戸数約136戸、生活困窮者約280人と日本軍参謀本部は記録した。
済南事件(五・三惨案)は1928年5月3日午前9時半頃に、中国山東省の済南にて発生した虐殺事件である。国民革命軍の一部による日本人襲撃事件から、さらに日本の権益と日本人居留民を保護するために第二次山東出兵された日本軍と、北伐中であった国民革命軍(南軍)と武力衝突事件である。日本軍は旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16人を殺害した。中国側は重大事件として、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。済南事件から、日本軍は第三次山東出兵を派遣した。武力衝突はいったん収まったが、日中軍事当局間の交渉が決裂した。1928年5月8日早朝に、日本軍は済南城への攻撃を開始した。安全地帯と避難路を指定して、国民革命軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。1928年5月11日、日本軍は済南を占領した。1929年3月に日本軍と国民革命軍の合意が成立して、日本軍が撤退した。
1928年春に国民革命軍は、イギリスとフランスに支援されて、北上して奉天系の軍閥である張作霖を攻撃した。日本軍は、国民革命軍が北方に侵攻するのを阻止するために、日本人移民を保護する名目で、済南を占領した。5月1日に、国民革命軍は済南に入城した。日本軍が発砲して、中国人の兵士と民間市民を大量に虐待と虐殺した。5月3日に、日本軍は再びに大挙して国民革命軍を攻撃した。国民革命軍は、反撃もできずに済南から撤退した。国民革命軍の撤退後に、済南にて日本軍による虐待と虐殺が横行した。中国人兵士と民間市民の約5千人以上も虐殺して済南大虐殺を執行した。
日本外務省は、済南事件を次のように概説している。北方軍閥を打倒する北伐により、蒋介石が率いる国民革命軍が北上すると、日本政府はこれに対抗して、1927年から1928年にかけて、居留民保護の名目で、3度にわたる山東出兵を挙行した。特に、第2次出兵をきっかけとする両軍の武力衝突は「済南事件」として周知された。済南事件は、外務省記録「済南事件」をはじめ、50冊に及ぶ関係記録があり、アジア歴史資料センターでも公開され、日本外交文書』(昭和期I第一部第二巻・第三巻)などにも史料が採録された。
第2次山東出兵にて、日本軍(陸軍第六師団)の先遣部隊が済南に入った一週間後に、蒋介石の国民革命軍も同地に到着した。済南の治安維持を国民革命軍が引き受けることを日本軍側に申し入れた。日本軍側がこれに同意して、済南市内は一旦平和裡に明け渡された。しかし、1928年5月3日、国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店の舗略奪事件をきっかけに、両軍は衝突した。この衝突は即日に停戦となるも、日本軍は5月8日から済南城の占領行動を開始てし、再度に戦闘を誘発した。4日間にわる済南城攻撃は極めて激しく、中国軍側に数多くの死者を出した。さらに、済南事件中に、第三次山東出兵により日本軍の増援部隊が派遣されたこともあり、中国軍の排日感情を煽った。6月に開始された両軍による事件解決交渉は、蒋介石の陳謝を強く求める日本軍側に対して、国民革命軍側が態度を硬化させて妥結せず、事件解決は外交交渉に委ねられた。交渉は、日本側の上海総領事と中国側の外交部長との3回の会談でもまとまらなかった。翌1929年に至り、南京と上海で日本側公使と中国側外交部長との会談で、3月28日に解決諸文書への調印となった。