太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月24日に戦死を覚悟した特別攻撃隊の操縦兵士が沖縄本島の崖に激突死した。その身体には、確実に戦死するために約25cm角のコンクリート・ブロックを体に結びつけていた。特攻隊員の多くは、ひきょう者を恥じ命令だから死にますと出撃していった。特攻隊員が生きて帰るのは名誉をけがす、死ねないのは、国賊でツラよごしと非難された。特攻隊員は確実に命を投げ出して絶命するためにセメントを担いだ。
沖縄戦の特攻作戦には、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、当時日本が占領していた台湾など多くの基地から出撃した。4月6日から九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに約11回にわたり約1,800機が特攻に出撃して約2,600人が戦死しました。本土最南端の知覧基地からは全特攻戦死者のうち約439人が知覧基地から出撃した。特別攻撃は82日間と連続的に行われたが、昼夜にわたる攻撃により、アメリカ軍の大艦は一隻も沈まなかった。特攻攻撃は、空母の撃沈に自らの命と引き換えた。しかし、巡洋艦と駆逐艦で護衛されて、空母からは戦闘機が特攻機を撃墜した。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を受けて、特攻機が巡洋艦以上の大型艦、正規空母と軽空母は1隻もなかった。