カンボジア難民はタイ国境のコスクンの臨時救護施設で、1979年1月に瀕死の娘が点滴処置されるも餓死した。カンボジア難民の母親は、餓死した娘の死体を抱いて悶絶して慟哭した。
カンボジアの内戦から逃れるために、カンボジア難民にはタイの難民キャンプまでの道のりには苛酷であり、死体が散乱して、多数の盗賊もいた。カンボジア政府や警察、泥棒に発見されないように隠れながら脱国した。 1979年6月にはタイ政府やタイ警察に見つかると、約4万人以上が強制送還されて、難民キャンプに戻れない。発見されるとカンボジアに強制的に戻されると虐待と虐殺される。食物もなく栄養失調から飢餓状態から餓死や病死した。1979年末までにカンボジア人口の約15%の約60万人以上が、タイ国境の収容所で生活した。
カンボジアは1975年からクメール・ルージュによる弾圧と大量虐殺の下で、約2万人のみが脱国した。1979年ベトナム軍がカンボジアに侵攻して支配した新政権から、移動が緩和されて膨大な難民がタイ国境に殺到した。1979年末までにカンボジア人口の約15%の約60万人以上が、タイ国境の収容所で生活した。