イギリスとフランスの天津租界を1939年6月14日にバリケードで封鎖して監視をした。日本軍は、天津租界の周囲に約50kmにおよぶ電線を張り巡らせ、それに約220Vの高圧電流を流した。中国人市民が、高圧電流の電線に触れて感電死した。
中国に治外法権がある租界の事件により、日本とイギリスの緊張関係が悪化した。日本軍は、中国各地の租界に抗日運動の拠点を支援していると容疑した。1939年4月9日に、天津租界で親日派の中国人幹部が殺害された。天津租界に対して、暗殺者の引き渡しを要求した。イギリス領事館は、暗殺の証拠が無いとして、拒否した。日本軍は、さらに天津租界から流出している偽札が、連銀券の価値を暴落させることの禁止を要求するも拒否していた。
イギリス租界は、やむなく現地の解決のために、7月25日に日英協議をした。その直後の7月26日に、日本の輸入の約4割も占めるアメリカが日米通商航海条約を一方的に破棄した。中国人だけでなくイギリス人に対する虐待の現地情報が報道されて、イギリスの反日世論に影響した。8月21日には日英協議は決裂して頓挫した。逆に、日本軍は日本国内では反イギリス運動が高めて、国民を反イギリスと反アメリカに誘導した。
2019年3月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 1,052回/日