中国の済南事件によって、日本軍兵士が1928年5月に済南市内を警備した。済南市の路上には済南市民の死体が散乱していた。1928年5月3日に、日本軍は山東省済南市で国民党軍への攻撃を開始した。国民党軍の妥協と譲歩、無抵抗命令により、多数の中国人兵士と民間人が虐殺された。
1928年5月3日に済南事件が勃発した。済南は、山東省にある商業都市で、日本人をはじめ、多くの外国人が居住していた。済南で、中国の軍閥同士の大規模な衝突が起こった。日本は日本人の居留民保護のために、1928年年4月下旬に済南へ日本軍を派兵した。日本軍は少数の派兵として、目的は日本軍の居留邦人の保護であった。日本派遣軍は、済南城の外にある商埠地にバリケードを築いて、戦いの衝突が及ばないようにした。
国民革命軍が済南を占領した時に、日本は日本人保護を口実に介入し、1928年5月3日、山東省国民政府委員の蔡公士を含む17人の外交官を残酷に殺害して、済南市を強制占領した。約6,123人の中国人民と中国軍兵士を無惨にも殺害した。1929年2月28日に、日本政府は国民党政府と合意に達して、済南から日本軍の軍隊を撤退させ、済南事件は終結した。
1928年5月3日に、蒋介石の国民党軍兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃した掠奪が勃発した。国民党軍の掠奪は凄まじく、中国人の警察官から役所の職員まで全員が略奪した。暴動が勃発すると、日頃の職務等は一切関係なくなった。武器を持った群衆も暴れ始め、軍の統制も効かなかった。暴徒たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えた。日本陸軍は、救援部隊を現場に急行させた。中国軍兵士たちは遁走し、国民党の兵舎に隠れては銃撃を加えた。済南市内全域は修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女も、中国人暴兵の手で惨殺された。