硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。太平洋戦争の硫黄島の戦いが終結した後に、それらの死体群をアメリカ軍兵士の埋葬版が検死をしながら鑑別した(上)。各々の死体から、識別番号と私物をアメリカ軍の埋葬部隊が検証して回った。硫黄島の北端に散在していた日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた(下)。ひどく壊れた死体は、多くは体が真っ直ぐに切断されて、脚と腕は身体から約15mも吹っ飛んだ。迅速な埋葬が必要であり、特に温暖な天候では、衛生上の理由から非常に重要であった。死体から死臭の腐敗臭はほとんど耐えられなかった。
硫黄島の戦いは1945年2 月19日から3月26日まで、アメリカ軍の占領で幕を閉じた。硫黄島は戦闘の終結後には、まるで死の谷のように死体が残存していた。火薬が残り、戦争跡が残り、足元には死体が散乱した。硫黄島の日本軍兵士はほぼ全滅して死亡した。アメリカ軍は硫黄島の占領で多大な代償を払った。戦闘の最初の3週間でのアメリカ軍兵士も日本軍兵士の死傷者のほとんどは、迫撃砲、大砲、地雷、手榴弾、ロケット爆弾などの高爆発物により、弾丸や迫撃砲は、どこからともなく飛んできて命を奪う。洞窟やブロックハウスに出くわした日本軍兵士をすべて撃ち殺し、焼き殺した。洞窟を覗き込み、戦闘員はいないと確信する。死んだはずの日本軍兵士が背後で再び生き返ったとき、突如に襲撃を受けた。孤立した洞窟の中で戦って、その下には広大なトンネルがあった。
硫黄島のいたるところに死体が転がっていた。葬式にも出たことのない青年兵士たちは、死んだ仲間を転がしていくことに慣れていった。生き生きとした青年兵士たちは、死を積んだトラックから死体を降ろす埋葬の仕事をした。硫黄島から生存したアメリカ軍兵士たちは、船出して、白い十字架の墓とダビデの星の列を見えたことを覚えている。硫黄島の地下にはまだ約6,000人以上の日本軍兵士の死体が埋葬されている。最近に約260人が発掘されたが、中には硫黄ガスでミイラ化した死体もあり、眼鏡が鼻の上にまっすぐに置かれて、頭髪も残っていた死体もあった。
硫黄島の戦いが1945年3月26日に終結した時には、アメリカ軍は硫黄島内で約20,703人の日本軍兵士の死体を者を数えて、約216人の捕虜を拘束していた。しかし、それからの約2ヶ月間も、硫黄島のアメリカ軍は日本軍の残党兵士と何度も遭遇した。終結後から終戦までに、日本軍兵士は、さらに約1,602人が死亡して、約867人が捕虜となった。太平洋戦争が終結した約3年後の1949年1月6日に2人の日本の残留日本兵が島の洞窟とトンネルに潜伏して最終降伏した。
アメリカ軍の死傷者数は、資料によって若干異なる。硫黄島の戦いで約6,812人のアメリカ軍兵士が戦死あるいは行方不明となり、約19,189人が負傷した。死傷者の内訳は、戦死者数は約4,917人、戦傷による死亡数は約1,401人で、行方不明は約494人と表記された。硫黄島の戦いは、アメリカ軍兵士には最も血なまぐさい戦いとなり、太平洋戦争において、アメリカ兵士の死傷指数が日本軍側の戦死者数を上回った唯一の戦闘であった。特に上陸してから3日間のアメリカ軍兵士の死傷者数は、アメリカ軍の軍事史上最多であった。硫黄島で民間人の死傷者はなかった。
硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。
日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた。