沖縄戦が終結直前の1945年6月16日に、アメリカ軍が難民収容所の民間人を強制的に死体の埋葬を命令して、壕を掘って土葬させた。沖縄戦が終結した6月22日後でも、飢餓による栄養失調と病気に対する手当が困難となって死亡した。。沖縄戦の終結後でも多くの沖縄住民が死亡した。各収容所では、アメリカ軍により、収容民への物資の配給、住居建設作業の手配、軍命令の伝達、収容地区内の治安維持などに当たった。民間人は、畑に残った作物の収集や残存家屋の解体、移動予定地での住宅建設などに当たり、特に男子に限り死体の処理やDDT散布などの作業に駆り出された。収容所は、物資は沖縄南部から補給され、沖縄北部になるほど待遇は厳しくなり、収容者は次々と死亡した。さらに北部の収容所への強制移住が実施され、北部の収容所は当時の人口の約6割が集中する過密状態となった。
沖縄住民はアメリカ軍に強制的に難民収容所に連行されて、食糧不足、飢餓と栄養失調、伝染病やマラリアのために多くの人々が死亡した。沖縄戦中は、戦争による外傷・栄養失調・マラリア等の病気によって多くの方が死亡した。アメリカ軍の難民収容所にて死亡した沖縄住民の死体は、共同墓地に埋葬された。民間収容所に収容された者の多く沖縄住民は、老人、婦人、子供であった。日本軍兵士や働き盛りの若い男性の多くは、捕虜収容所に入所された。難民収容所では、土葬するために墓穴を掘る作業は、老人や子供が主体となった。埋葬の際に、アメリカ軍は1つの墓穴に1人を埋めるように命令した。作業は老人や子供が担っていたため、集積される多数の死体の数量に埋葬が間に合わず、仕方なく1つの墓穴に2人以上から多いときは4~5人を埋葬した。難民収容所で亡くなった方の多くは、老人、婦人、子供であった。宜野座村の指定文化財となった古知屋共同墓地および福山共同墓地の死亡者名簿には、合計で約1,029名の被埋葬者名が記載された。
アメリカ軍は沖縄戦の捕虜を日本軍兵士と非戦闘員に区別した。各地域の住民を収容するために、占領した所に難民収容所を作り、住民を排除した隔離した。敵対的な地域の適切な管理のために、沖縄住民は敵国民に扱われた。沖縄住民を登録し、尋問し、監査するための収容所となった。難民収容所での食糧は、限られた配給を受けても不足した。収容所内でもアメリカ軍兵士による若い女性に対するレイプ事件が多発した。アメリカ軍に生存した日本軍兵士の捕虜は、1945年12月までに約16,346人となっている。アメリカ軍は6月10日からハワイの日系人収容所施設に捕虜を移送した。1945年7月19日付に、アメリカ軍は今後90日以内に約130,000人の沖縄住民を様々な区域から退去させることを突如に内定した。しかし、沖縄住民のための避難所や衛生設備は皆無であった。