日露戦争の初戦の遼陽会戦において、戦場となった黒英台附近の戦状では、1904年9月4日の黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した(「日露戦争写真画報, 第14巻」)。荒野に散乱した戦死者の死体を検死して処理をした。戦場では日本軍兵士は死と隣合わせであることを、残酷で悲惨な日露戦争の結末を示した。戦争による死の真実は、百聞は一見にしかずである。日露戦争で戦勝している場合には、戦争をより誇張と称賛するために、戦死者の真実を捧げた。しかし、厳しく不利な戦争になるに従って、戦死者の真実は隠蔽されて抹消された。
日露戦争の初期に、ロシア軍は約158,000人を中国東北部の遼陽付近に布陣して、日本軍は約125,000人と遼陽会戦した。日本軍は、1904年8月26日に夜襲して弓張岑付近のロシア軍前進陣地を占領した。8月30日には遼陽を包囲する総攻撃して、激戦の後の9月4日に日本軍は遼陽を占領して、南満州は日本の勢力下に置いた。日本軍は8月30日に各方面から攻撃を開始した。8月30日夜、連刀湾から太子河を渡河し、皇姑墳に進出した。主力は、8月31日に本渓湖を占領して、9月1日に黒英台・五頂山を占領して、ロシア軍の左側背を脅かした。動揺したロシア軍が9月3日の夕方から退却を始めた。日本軍は9月4日朝までに遼陽付近一帯の陣地を占領した。遼陽会戦で、日本軍兵士は約23,615人、ロシア軍兵士は約17,900人が犠牲となった。遼陽会戦は日本軍は遼陽に入城して、ロシア軍は遼陽駅を放火後に撤退した戦略的後退であると、世界中に対して両軍は勝利宣言を行った。機関銃から大口径砲などの近代兵器を揃えた大規模な戦争としては、近代史では遼陽会戦が初発となった。