日本軍の沖縄戦は1945年5月3日の作戦会議決定から5月5日まで玉砕する総攻撃が勃発した。玉砕する作戦により、日本軍兵士は圧倒的なアメリカ軍の攻撃を受けて多くが全滅した。日本軍兵士が、アメリカ軍に胸部を射撃されて大量出血して射殺された。沖縄戦の戦場には、日本軍兵士の死体が累々と横たわった。
5月3日に同時に、東西の海岸沿いに2つの部隊が侵攻して、海上を迂回してアメリカ軍の背後を突くように逆上陸した。那覇の西海岸から日本軍の左上陸隊の約700人が大山付近に侵攻した。東海岸から右逆上陸隊の約500人が津覇から奇襲上陸をめざした。両部隊は一部は上陸して、アメリカ軍が激しく交戦して、両部隊はほぼ壊滅して、東西海岸の逆上陸は頓挫してほとんど全滅した。5月3日未明に、棚原高地で日本軍兵士の屍が累々と横たわり、重症の兵が呻いて全滅した。
5月4日午前4時に、砲兵部隊がいっせいに半減した約200門の全火砲の砲撃を始めた。砲撃につづいて各部隊が突撃した。日本軍の迫撃砲陣地に対してアメリカ軍は猛烈な砲火で報復した。西原高地では、身体ごと衝撃する白兵戦が、山々の尾根で勃発した。小波川を越えて内間、小那覇付近で激戦となり、多数の死傷者を出した。一時的に四四・六高地を占領した日本軍は、圧倒的なアメリカ軍の戦闘機攻撃と戦車隊の逆襲を受けてほぼ全滅した。夜明けにアメリカ戦車隊に反撃され、中隊は全滅した。
アメリカ軍陣地深く棚原高地を占領した。アメリカ軍は反撃に出た。5月7日に日本軍の残存部隊が撤退した。日本軍の戦車連隊は、前田南側高地をめざしたが、アメリカ軍は集中的に砲撃し、ほとんど全滅した。アメリカ軍に押しまくられ、アメリカ軍に取って代わられた。総攻撃の日本軍の前線からの報告は、日本軍の一方的苦戦だった。日本軍司令部は、5月5日午後6時、総攻撃を中止して、持久戦に持ち込んだ。玉砕覚悟の総攻撃による損害は大きく、日本軍の損耗は5月5日だけで約7,000人近くにもなった。
沖縄戦が勃発して、日本本土はすでに沖縄を見捨てていた。サイパン、硫黄島が落ちた後、次は沖縄と台湾と想定された。閣議決定で、沖縄の市民を台湾に約2万人、九州に約8万人の疎開が決定された。台湾に疎開させるのは、日本軍は沖縄にアメリカ軍が来るこどを予期していた。沖縄の若年兵の精鋭の武部隊は沖縄戦の直前に台湾に転出させた。沖縄は日本本土の捨て石にされた。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びて、日本軍には沖縄を救う意識は少なかった。