台湾で1947年2月28日に勃発した二・二八事件の記念行進に参加した梁金鐘は、看板を持って人工死体を引っ張った。看板には「お母さん、どこにいるの?」と書かれた。
二・二八事件(Feburay 28 incident)、国民党率いる中華民国政府によって暴力的に弾圧された台湾における反政府蜂起である。南京で国家と中国大陸の内戦を指揮していた総統の蒋介石と台湾省長の陳儀によって指示され、1947年2月28日から数千人の民間人が殺害された。虐殺された民間人の死者数は約18,000人から28,000人と推定された。
高雄の血祭が、二・二八事件蜂起の際に、寿山の軍事基地を除き、高雄市周辺の政府機関はすべて国民革命軍の占拠下にあった。1947年3月5日に、基地司令官の彭孟致は、民衆を恐怖に陥れるために砲撃を行った。3月6日、高雄市長の黄忠武が率いる5人が彭に交渉に行ったが、その場で逮捕された。午後に、彭は軍隊を下山させ、見つけ次第殺せと命令すると同時に、鳳山駐屯の軍隊に援軍を要請して、市内で虐殺が勃発した。虐殺は3月8日まで続き、街には悪臭と血生臭い死体が山積みとなった。
鳳林の悲劇が、張志朗と三人の息子、張宗仁、張儀仁、張国禎は、台湾東海岸の花蓮の小さな町である鳳林で、1947年4月4日に、理由もなく息子3人とともに逮捕された。張儀鈞は軍医を証明する書類を携帯して助かったが、他の3人は町外れに連れ出され、銃殺された。未亡人が4月6日の夜明け前に、牛車で3人の死体を運んだ。
1945年、第二次世界大戦末期の日本の降伏に伴い、連合国は台湾の行政権を中華民国に譲り、約50年にわたる日本の植民地支配を終結した。台湾では、国民党による私有財産の恣意的な差し押さえ、経済的な不始末、政治的な排除など、強権的で腐敗しがちな行政に住民の不満が高まった。1947年2月27日、台北で国家専売局員が、密輸入のタバコを売ったと疑われた台湾人未亡人を殴打したのが発端となった。2月28日に、国民党軍兵士がデモ隊に発砲した。ラジオ局がデモ隊に占拠され、反乱が台湾全島に放送された。国民党知事となった陳儀は、増援した国民革命軍によって反乱を鎮圧した。2年後から約38年間、台湾島は戒厳令下に置かれ、白色テロ時代となった。白色テロでは、国民党は反体制派を迫害し、二・二八事件はタブー視されて議論できなかった。李登輝総統は1995年の事件記念日に初めて二・二八事件を公に議論した。