長崎原子爆弾の炸裂した長崎市内に3人の原爆孤児と思われる兄弟が取り残された。原爆孤児の長男が、2人の弟を木製の乳母車に乗せて、1945年10月頃に素足で徘徊していた。原爆で両親を亡くした子どもを原爆孤児と呼称した。原爆により約7,000人の原爆孤児が発生したと推測された。
アメリカ軍海兵隊第5師団所属のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル (Joe O’Donnell, 1922-2007)軍曹が、長崎原子爆弾に被災した長崎市内で、1945年10月頃に撮影した私的写真である。彼は、1945年9月から1946年3月まで、日本に駐留した。アメリカに帰国後に、全ての原爆ネガを自宅屋根裏部屋のトランクに閉じこめて、約43年間封印した。
1990年頃に彼は軍曹として撮影した原子爆弾の軍機密写真の封印を解いた。その公開後に、原爆写真を検証するも、場所も個人も特定は困難となった。アメリカ国内から彼は非難されて追い込まれて、離婚に繫がった。1993年に福島県若松栄町の原爆写真展で坂井貴美子と出会い、1997年に再婚した。彼女と三男の息子のタイグ・オダネル(Tyge O’Donnell)らは、ジョーの遺志を継いで、原爆の出版や写真展などを展開している。
ジョーが撮影した有名な「焼き場に立つ少年」も戦災孤児であった。「進駐軍が こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに、あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっととにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね。着替えもなんもなし。下は履くもんもなしですね。もうほんと。」と少年頃を回想した。