ソ連の東南シベリア地域のイルクーツクに、膨大な日本人捕虜の集団墓地が散在していた。イルクーツク州には日本人埋葬地には、約280箇所の墓標が散在した。イルクーツクは、バイカル湖近隣の東南シベリアの中心都市で、イルクーツク市には埋葬地で集団墓地でもあったマラトボ墓地が2003年に撤去された。訪ロの日本人が必ず参拝する墓地でもあった。
第二次世界大戦に、ソ連軍の参戦により降伏した終戦後に、膨大な日本軍捕虜がシベリア等の荒野に強制連行と強制収容されて、厚生労働省の約55,000人からロシア研究者の約9万人と推定された。満州の荒野を含めれば、約30万人もの日本人が死亡した。シベリアには、約60万人もの日本軍捕虜が抑留されていた。ドイツでは、特に約350万人ものドイツ人がソ連に抑留されて、約110万人が死亡したと推定された。日本人のシベリヤ抑留では、厳しい極寒、過酷な労働、食料と水不足、飢餓や病気、劣悪な環境に追い込まれた。強制労働は、土木工事約43%、鉄道工事約30%、採炭鉱約14%、生産工業約11%の重労働であった。捕虜収容所の体格検査で、尻の肉を引っ張り、皮下脂肪の厚みで等級を決めて作業と食事が措置された。
シベリア捕虜収容所では、日本人の主食は黒パンが1日約350g以下で、慢性的で過酷な飢餓状態に陥った。あらゆる強制作業に従事させられ、過酷なノルマを課せられた。毎日開かれる集会で、民主化運動により日本人捕虜は共産主義の思想教育により洗脳された。天皇制の批判とインターの合唱を繰り返した。
抑留開始から1946年12月19日に日本人引き揚に関する米ソ協定が締結され、少人数ずつの引き揚げが開始された。日本に最後の引き上げ船で約1,025人が乗船した興安丸が1956年12月26日に帰還して、最大で約11年間も抑留され、引揚者総数は約47万3,000人に及んだ。独ソ戦から、日本が降伏するまで(1941年6月~1945年9月)に、ソ連内に抑留され、強制労働に従事した捕虜は、約24カ国、総数約417万人にも及んだ。その内訳はドイツ人が約2,389,560人、日本人が639,635人、ハンガリー人が513,767人にも及んた。1991年4月16日にゴルバチョフ大統領が訪日の際に、約3万7,800人の日本人死亡者リストを持参し、ソ連抑留の犠牲となった抑留者や家族に哀悼の意を示した。