オムドゥルマンの戦闘後に、イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。略奪するために呼息ある戦傷者も虐殺してから略奪した。さらに一部のイギリス・エジプト軍兵士も略奪に参加した。
イギリス・エジプト軍はスーダンに南下を続け、マフディー国の首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達した。1898年9月2日にマフディー国防衛は最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でイギリス・エジプト軍に総突撃をかけた。これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を崩壊した。マフディー軍は総自殺のような騎兵隊の悲惨な突撃を繰り返した。次々と突撃攻撃するマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前に膨大な死傷者がなぎ倒された。早朝に始まった戦いは昼前にはイギリス・エジプト軍が占領して終結した。この戦いでマフディー軍の半分にあたる約11,000人が戦死して約6,000が戦傷して、イギリス・エジプト連合軍は約382人しか死傷者が出なかった。
熱狂的なイスラム教徒であるマフディー(約束された救世主)が指導する農民主体の反乱は、現在のスーダンで1881年から1889年の間にかけて起こった。何度もイギリス・エジプト軍を退け、約18年間の間独自の統治を行った。しかし相次ぐ対外戦争でマフディー国は疲弊し、イギリス・エジプト軍の巻き返しもあり崩壊して、スーダンはイギリス・エジプトの占領された。北アフリカにあったイギリス・エジプト領スーダンは、1889年から1956年までイギリスとエジプトの共同統治領となった。