バングラディッシュにおいて、1971年11月に若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。死体はバラバラに削られて、肉塊が投げられた。バングラデシュ独立戦争において、独立を阻止するべく西パキスタン軍に加えて過激なイスラム政治団体などが、独立運動家だけでなく、知識人やヒンドゥー教徒らも標的として、約100万人以上も殺戮を繰り返した。
1947年8月14日にインド・パキスタン分離独立により、約1600mほど離れたウルドゥ語の西パキスタンとベンガル語の東パキスタンとが、イスラム教を基盤に統合独立した。東ベンガル州として独立して、1955年に東パキスタンと改称された。ベンガル語でベンガル人の国を、バングラディッシュと呼称した。東パキスタンで1970年12月に初めての普通選挙で、第1党は東パキスタンを基盤とするアワミ連盟、第2党は西パキスタンの人民党が選出された。
軍事政権が1971年3月1日に国会の無期限停止の宣告に対して、抗議デモが連日に勃発した。各地で、東パキスタン軍隊とデモ隊とが衝突した内戦となり、多数の死者が発生した。ついに3月25日から軍隊は、独立支持勢力だけだなく無差別にベンガル人に対する虐待と虐殺を執行した。5月にはパキスタンは独立派を制圧して、 さらに東パキスタン内の反独立派(パキスタン支持派)によるベンガル人の大量虐殺が行われて、大量の難民がインドに逃避した。それを口実にインドが軍事介入して、東パキスタンの市民や学生らは解放軍を結成して内戦に陥った。12月3日にインドは東パキスタンに侵攻して、第3次インド・パキスタン戦争が勃発した。12月16日に東パキスタン政府軍が降伏して、ベンガル民族を基盤にバングラディッシュとして分離独立した。
1975年8月15日にバングラディッシュ軍は大統領を暗殺し、連発するクーデターで政権を掌握した。軍事支配は、バングラデシュ市民を再び抑圧して、市民の言論の自由は奪われた。市民が多くの犠牲を払い、バングラディシュの解放・独立へ共に戦ったことは、次第に無視され忘却された。
【閲覧留意】『第3回人間とは何か? 世界写真展 明日はあるか』Fig 46, 松屋、1975年