ロシア社会労働党の多数派であるボリシェビキが1917年に武力革命により、反革命軍である白軍に対する内戦が勃発した。内戦は白軍勢力の崩壊をもって、1922年まで散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。
「国際婦人デー」の1917年3月8日に首都ペトログラードの婦人労働者が、パン不足に抗議するデモを決行して全国的なゼネストへ発展した。更に3月12日には兵士達が反乱を起こし「三月革命」が勃発した。革命運動は各地に波及し、ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は崩壊した。
革命後の政権は戦争継続を主張するブルジョワジーと革命勢力である「ソビエト」の二重権力体制に移行した。7月3日にボリシェビキの武装デモが、臨時政府軍隊により制圧された。帝政復活を目指すロシア軍事最高司令官が8月27日に臨時政府への反乱を起こし、ボリシェビキとソビエトが阻止した。ボリシェビキは11月クーデター決行し、共産党による恐るべき大粛清と武装蜂起により新政府「人民委員会議」を奪取した。人民委員会議は、1918年1月の憲法制定会議の初日に、武力で議会を強制閉鎖する強硬手段で、反ボリシェビキ勢力を追放した。1918年7月に社会革命党左派をソビエトから排除して、ボリシェビキによる一党独裁体制を確立した。1918年にボリシェビキを「ロシア共産党」と改称し、重要産業、銀行の国有化、臨時政府の外債の破棄などを行った。
反発する社会革命党系勢力によるテロ行為が頻発し、旧ロシア軍の将軍たちは反革命軍(白軍)を組織して内戦が勃発した。創設された赤軍は反革命勢力に対抗するとともに、「戦時共産主義」とよばれる非常措置をとった。すべての土地、工場を国有化し商業活動を停止して労働義務性を制定して、新たに設立された秘密警察「チェーカー」による反革命分子の摘発と粛清が断行された。農民は銃による農作物の強制徴発が行われ、穀物を渡す事を拒否する者はその場で銃殺された。白軍政権の崩壊をもって、1922年に散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。
ソビエト社会主義共和国連邦の代償による経済政策が頓挫して、急増した餓死者と粛清者の死者数は少なくとも約1400万人に上った。レーニンはさらに苛烈な政策で、反対派を粛正する為、密偵、窃盗犯、ならず者、反革命運動家などを即座に射殺した。1924年のレーニンの死後に、独裁体制を引き継いだスターリンは更に激化した。十月革命が起きた1917年から1987年までに約6,200万人が死亡し、約4,000万人は強制収容所で死亡した。レーニンは社会主義国家建設のために約400万人の命を奪い、スターリンは維持のため約4,260万人の人命を奪った。