1904から1905年頃の日露戦争の葉書の表題には、「露國良民ノ惨殺屍体」と記載された。ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体と読める。この虐殺の状況には何の脈絡も説明もない。文法的には、虐殺されたロシア人の死体という意味にもなり得る。表題の解釈は見る人の思い込みによった。日露戦争では、木版画が戦場のドラマや血なまぐさい様子を伝えた。日露戦争の戦死者を撮影した写真は存在するが、まだカメラで写真を撮影するのはかなり困難であった。
1904年8月10日発行(東陽堂)の『風俗画報』の「ロシア征服の図10」の表紙では、山本庄弥により、モチアン峠での戦闘で数十人のロシア軍兵士を切り倒す日本軍の吉井中尉を描いた。吉井中尉の正確な剣によって、ロシア軍兵士の頭部が切り裂かれ、血の塊の中からほとんど見えない二つの目が覗き込んでいた。このような版画の様式やテーマは、人殺しや幽霊などの扇情的な絵を得意とした江戸時代の浮世絵師たちの影響を強く受けた。カラー版の原画は、ロシア軍兵士や吉井中尉の刀や鞘を深紅の血が覆っており、陰惨な絵画であった。1930年代頃から、日本がアジアに文明開花をもたらす存在になると、野蛮で血みどろの描写はマスコミから敬遠された。
上海事変の頃の写真には、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実が映し出された。上海事変写真画報(1932年2月22日、16-17頁、朝日新聞社)の表題全体には、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化した!
我が海兵隊は敵の死体の上を突進する"
と記載した。上海事変による死体も含めて戦争の悲惨さをありのままに伝えた。大都市を蹂躙する日本軍の近代的な軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の写真を撮影した。中国での戦闘に対する国際的な抗議があり、日本の政治家や軍部の指導者は写真を驚異と捉えた。日中戦争が勃発した後の1937年末に第二次上海事変と南京が陥落したとき、日本のマスコミはひどい都市破壊の写真を何枚も掲載した。しかし、中国人、日本人にかかわらず戦争による死者の写真は掲載しなかった。