ベトナム戦争は1965年7月頃に、南ベトナムの村落にて現れた村民を、南ベトナム政府軍とアメリカ軍は一様にベトコン容疑者として捕獲した。その一部のベトコン容疑者として、池の周辺で射殺して、死体が散乱した。南ベトナム政府軍とアメリカ軍兵士らは、死体から発生する悪臭で鼻を押さえながら、見回して検死していた。その後に村落は、証拠隠滅のためにブルドーザーで全く排除して焼却して消滅した。同じベトナム民族同士の憎しみ合いにより、残虐な虐待と虐殺する戦争犯罪に結びついた。
ベトコンは、南ベトナムのほとんどの地域で、地下組織に潜伏して、しばしば幽霊軍団と表現された。ベトコンには制服や徽章はなく、普通の南ベトナム人と見分けが困難であった。公式のベトコン本部もなく、幹部がいる特定の地域もなく、指揮系統に沿って伝達された。1960年に、ベトコンは共産主義的な反乱軍に成長した。北ベトナム政権の承認を得て、ベトコンは南部でテロ活動を活発化した。1961年10月には、ベトコンによる爆弾テロが約150件も発生した。
南ベトナムのディエム政権の腐敗と残虐行為により、南ベトナム人は疎外され、土地を奪われ、ベトコンに入隊して戦闘した。女性、子供、老人など戦えない者は、食料、安全、南ベトナム軍とアメリカ軍に関する情報を提供して、他の方法で支援した。仏教僧、宗教団体、離散した農民や都市労働者などもベトコンに参戦した。
しかし、ベトコンの支援の流れは双方向となり、爆撃、破壊工作、暗殺は、かなりの南ベトナム人の反発を生んだ。外国や南ベトナム政府を標的にしたが、しばしば罪のない民間ベトナム人を殺害して、私有地を破壊し、事業を中断させた。その結果、ディエム政権だけでなくベトコンも支持しない南ベトナム人も多くいた。
1965年にアメリカ軍兵士はベトナムに派遣の増員後に、ベトコンの撲滅が最大の攻撃目標となった。ベトコンはアメリカのマスコミで、悪者扱いされ、共産主義革命家、冷酷なテロリスト、南ベトナムのあらゆる殺戮行為者として喧伝された。ベトナム在留のアメリカ軍兵士は、ベトコンに憎悪と恐怖から驚異が入り混じった。西側諸国の戦争の慣習に従わず、公開戦闘を拒否して、奇襲、待ち伏せ、雷撃、狙撃、トンネル戦、地雷などが戦術となった。ベトコン兵士は、民間ベトナム人の間に隠れて、深いジャングルの中に避難し、真夜中にのみ移動した。ベトナム戦争に、世界最強の軍事大国のアメリカが、見分けのつかないベトコンと民間ベトナム人の戦争に巻き込まれた。