アメリカ軍のエドワード・ザイラー大佐が、ドイツ・ランズベルクの市民に対して、1945年4月27日に解放した近隣の強制労働収容所であるカウフェリングⅣ収容所の犠牲者の死体に目を向けるように要請した。大佐は、収容所を解放して、近くのランズベルグの町から約250人の民間人を徴集して、死んだ囚人の約360人の死体を埋葬させた。死体は、収容所の点呼所にある墓地に埋められていた。アメリカ軍兵士たちが解放時に、ナチス親衛隊が放火した小屋の残骸に煙を上げていた。この中から生きたまま焼かれた可能性のある約360人の死体が発見された。燃えた牢屋小屋の煙の中に、ナチスの刑務官がユダヤ人囚人を木製の小屋に閉じ込め、火をつけて生きたまま焼いた炭化した痩せ細った死体が横たわっていた。
アイヒェルスドルファー所長は、1945年1月4日にカウフェリングⅣ収容所の最後の責任者となった。病気収容所として指定されたが、ダッハウ強制収容所の劣悪な生活環境のために病気になり、働けなくなった囚人たちの収容所であった。ナチス親衛隊はアメリカ軍の侵攻される前に、ダッハウ強制収容所への囚人の死の行進を強制した。カウフェリングⅣ収容所では、バラックに火をつけて数百人の囚人を殺した。アイヒェルスドルファーは、事件番号000-50-2で、ダッハウ裁判では12月13日に判決され、1946年5月29日に死刑が執行された。
ナチスは全ユダヤ人をドイツから追放するも、他の労働力源を使い果たした。ユダヤ人をカウフェリング収容所に強制連行して、戦闘機工場を荒廃させる連合軍の爆撃の影響を受けない3つの巨大地下壕であるヴァイングートII、ダイアナII、ヴァルヌースIIを建設した。地下壕は、メッサーシュミットMe262の生産用であったが、アメリカ軍に解放されるまで、一機も生産できなかった。カウフェリング収容所はダッハウ強制収容所の分所の中で最も大きく、また最も劣悪な環境にあった。男性囚人用の72小屋と、女性囚人用の8の小屋で、囚人はしばしば暖房も食料も不十分な土の小屋で、土中に沈められ、外気から見えないように土で覆われた。収容所には、それぞれ数千人の囚人がおり、その大多数がユダヤ人であった。病気や栄養失調、職場や収容所の残酷な環境は、収容者たちを苦しめ、高い死亡率を伴った。約3万人の囚人の約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で死亡した。