1994年2月5日に、セルビア反政府勢力は、ボスニアの首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込んだ。サラエボ市民が、その犠牲となり殺害されて、死体が運び出された。迫撃砲でサラエボ市民の68人が殺害され、約200人が負傷した。血、腕、脚、肉片がサラエボ市場に散乱した。国連安保理事会ではセルビア人反政府勢力に対する空爆決議が採択された。この決議は、ロシアがセルビア人反政府勢力と仲介して拒否された。その以後も、セルビア人反政府勢力に対する空爆は、内戦を解決する手段として国際的に注目された。
1992年4月6日から勃発したボスニア紛争は、1994年3月にクロアチアとボスニアとが、ボスニアにムスリム人とクロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を創設することで合意した。ボスニア紛争で、ボスニアは兵士約31,270人と市民約34,723人が殺害され、クロアチアは兵士約5,439人と市民1,899人が殺害され、セルビア人は兵士約20,649人と市民約3,555人が殺害された。1995年には連邦化に反抗して孤立したセルビア人反政府勢力は、ボスニア東部からボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に迫撃した。1995年7月に、セルビア人反政府勢力は、スレブレニツァに侵攻して、ムスリム人を大量虐待と大量虐殺した。約8,000人のムスリム人男性が殺害されて、約4万人ものムスリム人の女性、こども、老人などがスレブレニツァの虐殺を逃れて避難した。国連の平和維持活動した約400人のオランダ軍は制止できなかった。
1996年8月に、セルビア人反政府勢力が、再度にサラエボ市場に迫撃砲が打ち込んで、約35人が殺害されて死亡した。即時に、ボスニアの北大西洋条約機構(NATO)軍が、サラエボの東部と南部のセルビア人反政府勢力の陣地に、約3週間の空爆をした。セルビア反政府勢力の約20ケ所以上の基地を空襲した。1996年9月に、セルビア人反政府勢力は、ボスニア西部のビハチ付近から撤退して、周辺から約5万人のセルビア人が逃避した。ムスリム人が、ボスニアの中部と南部を奪還して、ムスリム人が迫害して、大量のセルビア人がバルニャルカに逃避した。9月20日に、セルビア人反政府勢力は、サラエボから撤退した。12月14日に、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦内に、ボスニア連邦とセルビア人共和国の自治政府を形成するデイトン和平合意が成立してボスニア紛争は停止した。