広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。
広島原子爆弾を撮影した写真家たちは、写真に収めることができないほど多くの被爆の悲劇を目撃した。救護所では、焼けただれた子供たちの茫然自失の姿をとらえた。わずかに残っていた建物では、死屍累々の各階の救護室内フロアを用心しながら移動した。しかし、最悪の被爆者の光景は写真に、あまり記録されていない。"何度もシャッターを切ろうとしましたが、被害者が哀れみを求めてくるのです」とある写真家は釈明した。"あまりにも残酷で、あまりにも非人間的で、被爆者の救護の嘆願を無視することはできなかった。もし原爆だと知っていたら、写真を撮影しようとは思わなかったでしょう」。
日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」